らしいものですよ」
というような訳。
そこで、私も、良きモデルを得ることに苦心した前述の話などしまして、さらにこの次狆を彫る時には、右の米田さんの狆を是非見せて頂きましょうなど話しましたことであったが、それにつけても考えられることは、モデルを選むということは、世間を広く見た上にも広く、深く探し求めた上にも深く探究しないで、好《い》い加減の所で、もうこれで好いと自分一人決めにするようなことがあっては意外な欠陥を製作の後に残す悔いがある。これは注意の上にも注意すべきことだと深く感じたことでありました。
こういう事などもあって、私は、どうも、今度の製作には、まだ充分という確信が持てない。それに自分も審査員に加わっているにもかかわらず、審査の結果は金賞になるとの事。金賞といえばこの会では上のない賞で、またこれを貰う人はほかにないという事でもあり、どうも、自分の確信のない作に、金賞とあるのは少し過賞過ぎるように感じられて心苦しくなりましたから、これはやめにしておもらいしたいと、その夜、岸、塩田氏その他の幹部学芸員のお集まりの処で、「薄々承りますと、私の作は金賞になるとかいうことでありますが、まだ充分という所まで行っているものでありませんから、この賞はこの次さらに努力しました時までお預けすることにお願いして、今回は無賞に願いたいが、折角の御厚志でありますから、せめて銀賞を頂くことになりましたら、私も至極満足に思います」云々と自分の心持を正直に申し述べた上、後藤氏との談話の結果、モデルが充分でなかったこと、米田さんに充分なものがあることが判《わか》り、この次それを参考としてさらに力作をしたい下心であることなどお話しました。
幹部の人々も、至極もっともの話で、心持はよく分ったが、それは君のモデルの穿鑿《せんさく》が足りなかったといえばいえもしようが、彫刻という美術上の技倆の上には別に大した関係のないことで選んだモデルをモデルとしてやった結果が優秀と認める以上、そういう遠慮は君の謙遜《けんそん》した心持としておもしろいと思うけれども、我々の考えは一に製作その物の出来栄|如何《いかん》を批評鑑賞するのが任務で、当然君の作が金賞に値すると審査した結果であるから、これは我々の意見に一任されたがよろしかろうとのお言葉であった。なるほど、承って見ればこれもまた一理あり、先輩はまた先輩の見識もあることで、まだ私も後進のことなり、今度は何もいわずお任かせしようと思いましてそのままにしたことで、ついに金賞となりましたが、今日から考えても、随分努力の作とは申しながら、まだ考えが足らず誰方《どなた》にもやれそうな仕事で、今見れば銅賞にも及ばぬものかとも思われます。
しかし、大島如雲氏の手に掛かって鋳物にして、また見直したことで、その年の中に鋳造も出来《しゅつらい》して御造営事務局へ彫工会から納めました。
その後においても、今日に至るまで、宮城は度々拝観も仰せつかりましたが、貴婦人の間というのは拝観人にはお許しにならぬ御場所でもありますから、どういう工合に飾られてあるか、さらにそれは知りません。
それから、右の木型の原型は彫工会の事務所に保存してありますが、その中四肢で立っている分(この分一番出来がよかったと思う)が、何処かへ貸した際紛失してしまって、今は三つだけ残っております。その頃、私が狆を作ったため、それが珍しかったか、一時諸方に狆を拵えたのを見受けたことがありました。
今度の製作については、随分幹部の方々にもお世話を掛けたようなわけで、別して山高氏には御心配をかけました。同氏は先申す通り、博識で、美術界のために大いに尽くされた方で、池の端に宏壮《こうそう》な邸宅を構えておられました。今日でもその建築は池の端に高く聳《そび》え立っております。何んでも、かね[#「かね」に傍点]勾配《こうばい》をもう一層高くしたほどの高い屋根の家でありますから、山高さんのことを「屋根高《やねだか》」さんなど人はいった位でありました。
これから引き続いて鶏《とり》の話をする順序となります。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年1月8日作成
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