幕末維新懐古談
大隈綾子刀自の思い出
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)後戻《あともど》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大隈《おおくま》未亡人|綾子刀自《あやことじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あやかり[#「あやかり」に傍点]たい
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話がずっと後戻《あともど》りしますが、今日は少し別のはなしをしようかと思いますが、どうですか。
……では、そのはなしをすることにしましょう。
実は、先日来、大隈《おおくま》未亡人|綾子刀自《あやことじ》が御重体であると新聞紙上で承り、昔、お見知りの人のことで、蔭ながらお案じしていた次第であったが、今朝(大正十二年四月二十九日)の新聞を見ると、お歿《なく》なりになったそうで、まことに御愁傷のことである。
それにつけて、この頃、綾子刀自の素性《すじょう》のことについて、いろいろ噂《うわさ》を聞いたり、また新聞などで見たりしますと、元、料理屋の女中であったなど、誰々の妾《めかけ》であったなどというようなことが伝えられているが、そういうことは皆間違いで一つも拠処《よりどころ》がない。こういう噂は何処《どこ》から出たものか。察するに綾子刀自が大隈家へ嫁がれた時分は、ちょうど何もかも徳川|瓦解《がかい》の後を受けたドサクサの時代で、その頃の政治家という人たちは多くお国侍《くにざむらい》で、東京へ出て仮りの住居《すまい》をしておって、急に地位が高くなり政治家成り金とでもいうような有様で、何んでもヤンチャな世の中……殺風景なことが多く、したがってその配偶者のことなども乱暴無雑作なことがちで、芸妓《げいぎ》、芸人を妻や妾にするとか、女髪結の娘でも縹緻《きりょう》がよければ一足飛びに奥さんにするとかいう風であったから、こういう一体の風習の中へ綾子刀自のことも一緒に巻き込まれて、同じような行き方であったろうなど推測し、右のような噂が今日も伝えられるのであろうかと思われますが、これは全く大間違いであるのです。
という訳は、その因縁を話しませんと分りませんが、実は、私は、昔、綾子刀自の娘盛りの時代を妙なことで能《よ》く知っている。この事を話せばおのずから綾子刀自の素性が明らかになることで、何時《いつ》か、この事を何かのついでに話して置くか、書き留めて置きたいと思っておったことであったが、今日はちょうどよい折とも思いますから一通り話しましょう。
幕府瓦解の後は旗下《はたもと》御家人《ごけにん》というような格の家が急に生計《くらし》の方法に困っていろいろ苦労をしたものであった。
その頃、旧旗下で三枝竜之介《さえぐさりゅうのすけ》という方がありました。この方の屋敷は御徒町にあった。立花家の屋敷を前にした右側(上野の方から)にありました。禄は何程《いかほど》であったか、七、八百石位でもあったか内証豊かな旗下であった。
この三枝家が私の師匠東雲師の仕事先、俗にいう華客場《とくいば》であったので、師匠は平常《ふだん》当主の竜之介と極《ごく》懇意にしておりました。その中旗下は徳川の扶持を離れ、士族になって、世の中の変るにつれ今までの武家の格式も棄《す》て、町人百姓とも交際《つきあい》をせねばならなくなったので、私の師匠は従前よりも一層親しく三枝家の相談を受けておったことでしたが、三枝家でも世変のためにいろいろ事情もあって、今までの屋敷が不用になったから、それを売りたいというので師匠は相談を受けておった。けれども、他に好い買い手もなかったが、師匠がその屋敷を買い取ることになって、一時、向島《むこうじま》へ預けて置いたが、預かり主が風のよくない人で、預けた材木が段々減って行くような有様なので、師匠は空地《あきち》を見附け、右の三枝家から買い取った家の材木で家作を立てました。この家がすなわち前お話した堀田原の家。師匠の姉のお悦さんの住んでいた家であります。お悦さんは私の養母であって、私も其所《そこ》に寝泊まりをし、後には一家すべてが引き移ったのです。座敷など三枝家の時とそのままで武家風な作りであった。
当時、竜之介氏も他の旗下衆の人たちと同じように一家の事も充分でなかったと見え、或る日、東雲師の家に来られて、
「東雲さん、私も、どうもこの頃運が悪くて困る。一つ運が好《よ》くなるように、縁喜直《えんぎなお》しに大黒《だいこく》さんを彫ってくれませんか」
という頼み、師匠も尋常《ただ》ならぬ三枝氏の頼みだから、「それは、早速彫りましょう」といって和白檀で二寸四分の小さな大黒さんを彫って上げました。すると、それが大変竜之介氏の気に入ったのでした。というのは、木の木目《きめ》の玉《たま》が、頭巾《ずきん》にも腹のところにも、また、俵の左右の宝球のところにもまるで球《たま》のように旨《うま》く出たのであったので、それが縁喜が好いといって三枝氏が大層よろこんだのでした。
この木の玉の出るのは、必ずしも偶然ではなく、木取りの仕様で、出そうと思えば出るものです。師匠は特にそういう風に作られたのですが、素人《しろうと》にはそういうことは分らないから、奇瑞《きずい》のようにも思われてよろこんだのでありました。すると、この大黒が出来上がって間もなく、妹御《いもうとご》のお綾さんが、時の大官大隈|重信《しげのぶ》という人の処へ貰われて大変に出世をされた。これは東雲師の彫った大黒の御利益《ごりやく》だといって三枝家の親類の人たちは目出たがって、自分たちもあやかり[#「あやかり」に傍点]たいものだと、二軒の御親類から、また、大黒を頼まれたが、この方は御利益があったか、私はそこまでは知りません。
竜之介氏と妹御のお綾さんとの母親になる方は、その頃は未亡人で、頭を丸めてお比丘《びく》さんのように坊さんでしたが、そんなにお婆《ばあ》さんではありませんでした。俗にいう美人型の面長《おもなが》な顔で、品格といい縹緻《きりょう》といい、旗下の奥さんとして恥ずかしからぬ相貌《そうぼう》の方で、なかなか立派な婦人でありました。お綾さんも、母親に似てまことに美しかったが、もちっと丸顔であった。後に歳を老《と》られてからの写真を新聞などで見ても、やはり、その時の悌《おもかげ》がよく残っておって、母人《ははびと》よりも丸い方に私は思ったことだが……それはとにかく、三枝未亡人は、このお綾さんのことを心配されて、よりより師匠へ縁談のことについて相談をしておられました。
或る時も三枝未亡人が駒形《こまがた》の師匠の宅へ見えられ、娘のことについて師匠に相談をされている。
「……今日では、もはや、武家、町人と区別《けじめ》を立てる時節でもなく、町家でも手堅い家であり、また気立ての好い人物《ひと》ならば、綾を何処《どこ》へでもお世話をお願いしたい。貴君《あなた》は世間が広いから、好い縁があらば、どうか、おたのみします」
など話しておられる(私はまだ小僧時代であるが、店のことや、奥のことも走り使いをしている時のことで、よくその消息を知っている)。それで、師匠もその事について心配をしておられました。
ここにまた師匠の華客先《とくいさき》で神田|和泉橋《いずみばし》に辻屋《つじや》という糸屋がありました。糸屋でこそあれ辻屋は土地の旧家で身代もなかなか確《しっ》かりしたもの、普通の糸屋と異《ちが》って、鎧《よろい》の縅《おどし》の糸、下緒《さげお》など専門にして老舗《しにせ》であった。主人は代々上品な数寄者《すきしゃ》であって、いろいろその頃の名工の作など集められた。それで師匠も辻屋に出入りをしておった訳である。彼の彫金の大先生|加納夏雄《かのうなつお》さんが京から江戸へ出た時に草鞋《わらじ》を脱いだ家がこの辻屋ということです。今日でいう美術家とはいろいろ深い縁故のある家であった。
この辻屋の次男に貨一郎という人があった。神田お玉ヶ他に徳川様のお大工|棟梁《とうりょう》をしていた柏木稲葉《かしわぎいなば》という人の養子になって柏木貨一郎と名乗っておった。二十四、五の立派な人品のよい、すこぶる美男子で、少し小柄ではあるが大家の若旦那といって恥ずかしからぬ人でした。この人もまた美術愛好家であって、夏雄さんの彫り物では鏡蓋《かがみぶた》、前金具《まえかなぐ》、煙管《キセル》など沢山に所持しており、また古いものにも精通しておられ、柏木貨一郎というとその頃の数寄者仲間には知られた人で、同氏が所持していたものといえば、それを譲り受けるにも人が安心した位、信用のあった人でありました。
この柏木氏は今申す通り、大工棟梁の家筋で素《す》の町人ではない。屋敷も門構えで武家|住居《すまい》のような立派な構え、したがって資産もあり、男振《おとこぶ》りは美男子というのであるから、私の師匠はこの人に目を附けたのでした。この師匠の見立てが、甚だ適当で、一方お旗下のお嬢様であるお綾さんにはいかにも似合いの縁辺というべきであった。それにお綾さんはまたなかなかの美人であり、武家の家庭のことで教育《しつけ》は充分、生まれつき怜悧《れいり》で、母人はまたよろしい方、今は瓦解をして士族になって、多少は昔の威光が薄くなっているけれども、まだまだ品格は昔のままである。でこの柏木貨一郎さんとお綾さんとを並べると、それこそお雛様《ひなさま》の女夫《みょうと》のような一対の美しい夫婦が出来ると、師匠も家にいてその事を妻君などに話し、どうか、この縁は纏《まと》めて見たいものだ、といっておられました。
師匠はこの縁談を柏木家へ申し込んだのでありました。これは師匠が辻屋に出入りをしていた関係で柏木家へも出入りする。柏木家の未亡人からも養子に相当な嫁があったら世話してくれと頼まれていたので、ちょうど両方からの依頼で、自然と一対のものが出来たような塩梅《あんばい》になったのですから、師匠もこれは出来ると思った柏木家へ申し込んだのであります。すると、案の条、柏木家でもまことに結構とある。そこで柏木家から改めて師匠を介して三枝家へお綾さんを貰いたいと申し込んだのです。三枝さんでは師匠に一切を任した位に師匠を信じて頼んでいるのであるから、こちらもまた甚だ結構ということで、どうか骨折って纏めてくれという挨拶《あいさつ》である。で、師匠が双方を幾度か往復していよいよ見合いをしようという運びになりました。
さて、見合いということになりましたが、当時世の中もまだ充分に静謐《せいひつ》になったというではなく明治新政の手の附け初めで、何となく騒々しい時で、前から多少とも物持ちの家でも財産を減らさぬようにと心掛け、万事控え目にした時でありますから、この見合いのことなども双方ともに極《ごく》質素に致すがよろしかろうということで、師匠の宅の坐敷で、双方が落ち合うようにしたらというのであったが、師匠は、どうも、自分宅といっても坐敷というほどの坐敷もなし、柏木家と三枝家との歴とした両方の関係者をお招きするだけのことは出来ませんから、何処か、極《ごく》倹約で、人目に立たない好い場所を考えましょうといって、思い附いたのが諏訪町河岸《すわちょうがし》の「坊主そば」の二階であった。
このそば屋のことは、前に浅草|界隈《かいわい》の名代な店のはなしをした折はなしました通り、主人が聾《つんぼ》であるから「聾そば」ともいってなかなか名の売れた店で並みの二八そばやではない。この二階をその見合いの場所にするということになった。
当日は無論、私の師匠は双方の仲介者であるから誰を差し措《お》いても出掛けなければなりません。で師匠は羽織など着て出掛けることになったが、そのお伴《とも》は相変らず私である。私はその時分はまだ小僧で、師匠に幸吉々々と可愛がられ重宝がられたもので、使い先のことはもとより、お伴も毎々のことで、辻屋でも、三枝さんでも、また柏木家でも師匠と多少とも関係交渉のあった家は何処でも知っており、また種々《いろいろ》な事件の真相なども大
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