方は心得ておったものでありました。それで、今度もお伴を仰せつかって師匠の後から「坊主そば屋」へお伴をして参ったのでありました。
 かれこれする中《うち》に柏木貨一郎さんが養母とともに見える。三枝のお嬢さんお綾さんには母者人《ははじゃびと》のおびく[#「びく」に傍点]さんが附いて見えられる。二階で落ち合って蕎麦《そば》を食べて見合いをされた。一方は水の垂《た》るような美男、一方は近所でも美人の評ある旧旗本のお嬢さん、まことに似合いの縹緻人|揃《ぞろ》いのことで、どっちに嫌《いや》のあろうはずなく、相談はたちまち整ったのでありました。この時、お綾さんは確か十八で貨一郎さんは二十五位であったと思う。私はお綾さんよりは一つ年下で十七であった。小僧とはいっても最早|中《ちゅう》小僧で、今日でいえば中学校の青年位の年輩であるから、記憶などは人間一生の中で一番確かな時分――見合いというものは、どういうことをするものかなど恐らく好奇心もあったか、婿《むこ》さんの貨一郎さんも、お嫁さんの方のお綾さんも、今日でもその美しい似合いの一対であったことがハッキリと記憶に残っております。

 そこでこの縁談は整い、早速仕度をしてお輿入《こしい》れという段になって、目出たく婚儀は整いました。しかるに、これが意外にも不縁となってしまったのでありますが、これにはまた理由があった。……というのは貨一郎さんには養母がある。これは柏木家の未亡人で、すなわちお大工棟梁稲葉という人の後家さんであります。この方が、今日《こんにち》でいえばヒステリーのような工合の人で、なかなかちょっと始末の悪い質《たち》の婦人。まず一種の機嫌かいで、好いとなると火の附くように急《せ》き立て、また悪いとなり、嫌となると前後の分別もなく、纏まったことでも破談にしてしまうという質で、甚だ面倒な人であった。
 こういう性質の人を養母にしていた柏木貨一郎さんは、とてもこの縁は一生添い遂げることは困難《むつか》しかろうと想《おも》われたらしい。元来、この貨一郎という人は考え深い人であったから、今度の縁談については、いろいろ深く考えておったものらしく思われる。これは私の後日に到《いた》っての想像でありますが、どうもそうと解釈される。つまり、貨一郎氏の肚《はら》では、あの養母がいられる間は、いかに発明な婦人を妻としたとても、一家に波が立たずに済もうとも思わず、また添い遂げ得られようとも思われぬ。どうで、添い遂げられぬものなら、一旦、自分の妻となった女であっても、その人へ傷を附けたくない。とこう考えられたものと見える。それで御夫婦の間のことは極《ごく》疎遠であったらしい。夫婦のかための杯《さかずき》はあったが、夫婦の語らいはなかった。で、お綾さんが里へ来て、その事をお母様へお話をしたものらしい。
 三枝未亡人がこの娘の話を聞くと、意外に感じたことは道理《もっとも》なこと。これはまず何より媒酌人《なこうど》の東雲さんに話すが好《よ》かろう。この嫁入り前より何か他に思い込んだ婦人でもあるのではないか。もしそういう事なら今の内引き取った方が双方のために好かろうというので、御母様が来て話されましたので、東雲師もこれは困ったと思ったが、貨一郎氏にも深い考えあってしている心持ちが分ると、夫婦の中へ立ち入って好い工合に纏めることも出来ずそのままになっている中《うち》とうとう柏木未亡人方にも何か都合があって、双方話合いでいよいよ破談となってお綾さんは里へ引き取られることになりました。
 三枝家の方では、婿の貨一郎さんの真意のある所が分りませんから、やはり疑惑を懐《いだ》き、先方の仕打ちを面白く思わないのも道理《もっとも》な次第です。また、柏木貨一郎氏の心の中には種々《いろいろ》辛《つら》いこともあったでありましょう。しかし、当人に傷の附かない中に綺麗《きれい》に還《かえ》すということが、この際何よりのことと最初から思い極《きわ》め、お綾さんのために後々のことを心配し、また自分にも用心をして非常にたしなん[#「たしなん」に傍点]でいたものらしいが、そういう深い実情は三枝家の方には分りようもなく、ついに双方の間に意思の疎通を欠いたまま不縁となったことはまことに残念なことでありました。
 私の師匠もこの間に挟《はさ》まって、いろいろ斡旋《あっせん》しましたことはいうまでもないが、何しろ、一方のお袋さんが、嫁を貰う時には貨一郎氏が何んといっても自分先に立って極《き》めてしまい、少し気に向かなければ、なかなか気随者《きずいもの》で、いい張ったとなると、誰が何んといっても我意を張り通すような有様で随分|手古摺《てこず》らされたような塩梅《あんばい》でありました。私は小僧のことで直接にはそういう交渉に当ったわけではないが、毎度、これらの要件のことで師匠の意を受けてお使いをしたり、また師匠が妻君に話していること、時々、私に愚痴《ぐち》を洩《も》らされることなどで、この結婚が破れるのであろうということを予想しておりました。後に至っても偶々《たまたま》師匠が当時のことを私に話して、本当に媒酌人をするということは重大な責任のあることを語られましたが、この時の心配苦労の一通りでなかったことが推察されました。

 さて、その後、お綾さんが里へ帰られ、間もなく大隈さんへ貰われることになったのですが、この関係は私は知りません。また、師匠もこの時のことには立ち入っておりませんでした。しかし、或る日三枝未亡人が師匠宅へ見えられてお綾さんのその後のことについて話しておられました。
「……実は、綾のことですが、今度お国のお侍で大隈という人から是非|慾《ほ》しいというので、遣わすことに承諾しましたのですが、まるで娘を掠奪《さら》われるような工合で、私も実に驚きました」
と、愚痴交じりにいっておられた所を見ると、未亡人も承諾はしたものの、先方の行方《やりかた》が乱暴なので迷惑に感じたような口裏であった。
 これは一方は直参《じきさん》のお旗下で、とにかく、お上品で三指式《みつゆびしき》に行こうというところへ、一方は西国大名の中でも荒い評判の鍋島《なべしま》藩中のお国侍、大隈八太郎といって非常な論客で政治に熱狂していた志士の一人。その時は既に大官を得て出世しているとはいえ、万事が粗野放胆で婚儀のことなど礼節にかかわらず、妻を娶《めと》るは品物のやり取り位に思っていたであろうから、お品の好い御殿風な三枝未亡人を驚かしたも無理ならぬことと思われます。何んでも人力車《じんりきしゃ》に書生《しょせい》をつけてよこして、花嫁|御寮《ごりょう》を乗せて、さっさと伴《つ》れて行ったりしては、お袋さんも娘の出世はよろこんでも、愚痴の一つもいいたくなって、東雲師の宅へ出掛けてお出《い》でになったものと見えます。
 東雲師は、黙って話しを聴《き》いておられたが、
「なるほど、しかし、そりゃ仕方がありませんよ。東京の方と、田舎《いなか》の人とでは、どうも……」
など挨拶をしている。
「でもねえ、何んだか、私は不安心ですよ。綾が取って食べられそうな人なんで……」
「いや、御隠居様。今の世の中は、そういう男が役に立つのでございますよ。御安心なさいまし」
 師匠は高声で、笑い声も交じって奥で話していられる。私は店にいて、聞くともなくそんな話しを聞いて、あの御婦人も今度田舎のお武士《さむらい》へお片附きになったかと思ったことでありました。

 その後、幾日かを経て、三枝未亡人はまた東雲師宅へ参られ、申すには、東雲さん、今日は妙なことをちょっとお願いしたいので参りましたが、実はこれを貴君《あなた》に始末して頂こうと思って持って参じましたといって風呂敷包《ふろしきづつ》みを解かれると、中に絹の服紗《ふくさ》に包んだものが米ならば一升五合もあろうかと思うほどの嵩《かさ》になっている。それを拡《ひろ》げると、中から出たものが無数の紙片の束であった。
「これは綾子が宅におります時分、長い間掛かって丹精して書きためたものですが、仕舞って置くにしても置き所もなし、焼いて棄てるにしては勿体《もったい》なし。貴君は仏師のことで、こういうものの始末はよく御存じと思いますので、何んとか好い方法で始末をなすって下さい」
との事。
 師匠は何んであるかと、その物を見ると、それらの紙片は短冊《たんざく》なりに切った長さ三寸巾六、七分位の薄様|美濃《みの》に一枚々々|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の御名号《おんみょうごう》が書いてある。それが一束々々になっているが、一束が千枚あるか、二千枚あるか、実に非常な数である。
「どうもこれは驚きました。これをお嬢様がお書きになったのでございますか」
「さようで……」
「何か御心願でもあってこんなに御丹精をなされたのでございますか」
「さあ、どうで御座いますか。あの娘の心持は私には分りませんが、何んでも毎日の勤行《ごんぎょう》のようにして、幾年か掛かって書きためたのですが、一心の籠《こも》ったもの故、こうして置くのは勿体なく……」
「なるほど、宣《よろ》しゅうございます。では、これは隅田川《すみだがわ》で川施餓鬼《かわせがき》のある時に川へ流すことに致しましょう。焼いて棄てるは勿体ない。このまま仏間になど置きましてもよろしいが、それより川へ流せば一番綺麗でよろしゅうございましょう」
「では、どうか、よろしく……」
というような談話《はなし》をして、三枝未亡人は帰られました。

 それから、その年の夏に隅田川で川施餓鬼のあった日、師匠は私を呼んで、これを吾妻橋《あずまばし》から流すようにといいつかりました。
 で、弟《おとうと》弟子の小沢松五郎を伴《つ》れ(上野戦争のはなしの条《くだり》にて、半さんの家へ私と一緒に参った小僧)、小風呂敷に包んだものを持って吾妻橋へ行きました。川施餓鬼の船がテンテンテンテンと囃《はや》して卒塔婆《そとば》を積んで橋下を抜けて行くのを見掛け、私と松五郎と南無阿弥陀仏の名号の書いてある紙片を一枚々々水面へ向けて流し出しました。妙なもので、どうもこういう風に一枚々々丹念に名号が書かれてある短冊ですから、それを束なりに川の中へ抛《ほう》り込むわけには行かない。流すという心持になりますと、やはり一枚々々と我が手から離れて風がひらひらと持って行って水に流れて行くのでないと流した心になりませんから、私たちは丁寧に一枚々々とめくっては流したことですが、何しろ、無数の紙片のこと故、二、三時間も掛かってやっと流してしまいました。
 私は、その時は別に何んとも深く考えもしはしませんでしたが、後年、その時のことを想い出して信神《しんじん》も信神であるが、これだけのことを倦《あ》きず撓《たわ》まず、毎日々々やり透すということは普通のものに出来ることではない。噂《うわさ》に聞けば大隈夫人綾子という人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、なるほど、娘時代からあれだけの辛抱をして心を錬《ね》っておられただけあって、今日天下一、二といわれる政治家の夫人となってもやはりその妻としての役儀を立派に仕終《しおお》せるというは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。

 私が綾子刀自について知っている因縁ばなしというのはこれだけのことで、そのほか何もありません。
 けれども、私は、刀自が初縁の際の見合いに仲介人の師匠のお伴までしてその席を実見したほど、その時代のことを能《よ》く知っており、正銘《しょうみょう》疑いなしの話である。よって、私は、この奇妙な話はまことに不思議ともいうべきであるから、何時《いつ》かは何かに書き残して置きたいとも思っていたのですが、ここにそれを差し控え、今日まで、かつて口外したこともなく、これだけの話をそのまま黙っておったのは、綾子刀自が大隈家へ方附《かたづ》かれたのが、初縁でないのであるから、もし、ひょっとそういうことを私の口から口外しては、と遠慮を致したわけでありました。もっとも、大隈家へ再縁されたと申しても、事情は前申す通りの訳で
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