でありました。これは師匠が辻屋に出入りをしていた関係で柏木家へも出入りする。柏木家の未亡人からも養子に相当な嫁があったら世話してくれと頼まれていたので、ちょうど両方からの依頼で、自然と一対のものが出来たような塩梅《あんばい》になったのですから、師匠もこれは出来ると思った柏木家へ申し込んだのであります。すると、案の条、柏木家でもまことに結構とある。そこで柏木家から改めて師匠を介して三枝家へお綾さんを貰いたいと申し込んだのです。三枝さんでは師匠に一切を任した位に師匠を信じて頼んでいるのであるから、こちらもまた甚だ結構ということで、どうか骨折って纏めてくれという挨拶《あいさつ》である。で、師匠が双方を幾度か往復していよいよ見合いをしようという運びになりました。

 さて、見合いということになりましたが、当時世の中もまだ充分に静謐《せいひつ》になったというではなく明治新政の手の附け初めで、何となく騒々しい時で、前から多少とも物持ちの家でも財産を減らさぬようにと心掛け、万事控え目にした時でありますから、この見合いのことなども双方ともに極《ごく》質素に致すがよろしかろうということで、師匠の宅の坐敷で、双方が落ち合うようにしたらというのであったが、師匠は、どうも、自分宅といっても坐敷というほどの坐敷もなし、柏木家と三枝家との歴とした両方の関係者をお招きするだけのことは出来ませんから、何処か、極《ごく》倹約で、人目に立たない好い場所を考えましょうといって、思い附いたのが諏訪町河岸《すわちょうがし》の「坊主そば」の二階であった。
 このそば屋のことは、前に浅草|界隈《かいわい》の名代な店のはなしをした折はなしました通り、主人が聾《つんぼ》であるから「聾そば」ともいってなかなか名の売れた店で並みの二八そばやではない。この二階をその見合いの場所にするということになった。

 当日は無論、私の師匠は双方の仲介者であるから誰を差し措《お》いても出掛けなければなりません。で師匠は羽織など着て出掛けることになったが、そのお伴《とも》は相変らず私である。私はその時分はまだ小僧で、師匠に幸吉々々と可愛がられ重宝がられたもので、使い先のことはもとより、お伴も毎々のことで、辻屋でも、三枝さんでも、また柏木家でも師匠と多少とも関係交渉のあった家は何処でも知っており、また種々《いろいろ》な事件の真相なども大
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