で、弟《おとうと》弟子の小沢松五郎を伴《つ》れ(上野戦争のはなしの条《くだり》にて、半さんの家へ私と一緒に参った小僧)、小風呂敷に包んだものを持って吾妻橋へ行きました。川施餓鬼の船がテンテンテンテンと囃《はや》して卒塔婆《そとば》を積んで橋下を抜けて行くのを見掛け、私と松五郎と南無阿弥陀仏の名号の書いてある紙片を一枚々々水面へ向けて流し出しました。妙なもので、どうもこういう風に一枚々々丹念に名号が書かれてある短冊ですから、それを束なりに川の中へ抛《ほう》り込むわけには行かない。流すという心持になりますと、やはり一枚々々と我が手から離れて風がひらひらと持って行って水に流れて行くのでないと流した心になりませんから、私たちは丁寧に一枚々々とめくっては流したことですが、何しろ、無数の紙片のこと故、二、三時間も掛かってやっと流してしまいました。
私は、その時は別に何んとも深く考えもしはしませんでしたが、後年、その時のことを想い出して信神《しんじん》も信神であるが、これだけのことを倦《あ》きず撓《たわ》まず、毎日々々やり透すということは普通のものに出来ることではない。噂《うわさ》に聞けば大隈夫人綾子という人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、なるほど、娘時代からあれだけの辛抱をして心を錬《ね》っておられただけあって、今日天下一、二といわれる政治家の夫人となってもやはりその妻としての役儀を立派に仕終《しおお》せるというは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。
私が綾子刀自について知っている因縁ばなしというのはこれだけのことで、そのほか何もありません。
けれども、私は、刀自が初縁の際の見合いに仲介人の師匠のお伴までしてその席を実見したほど、その時代のことを能《よ》く知っており、正銘《しょうみょう》疑いなしの話である。よって、私は、この奇妙な話はまことに不思議ともいうべきであるから、何時《いつ》かは何かに書き残して置きたいとも思っていたのですが、ここにそれを差し控え、今日まで、かつて口外したこともなく、これだけの話をそのまま黙っておったのは、綾子刀自が大隈家へ方附《かたづ》かれたのが、初縁でないのであるから、もし、ひょっとそういうことを私の口から口外しては、と遠慮を致したわけでありました。もっとも、大隈家へ再縁されたと申しても、事情は前申す通りの訳で
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