幕末維新懐古談
大病をした時のことなど
高村光雲

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仲御徒町《なかおかちまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自身|煎《せん》じて
−−

 ちょうどこの彫工会発会当時前後は私は西町にいました。
 その節、彼の三河屋の老人と心やすくなって三河屋の仕事をしたことは前に話しましたが、その関係上、少しでも三河屋の方に近くなる方が都合がよかったので、老人の勧めもあって、仲御徒町《なかおかちまち》一丁目三十七番地へ転宅しました。西町の宅よりも四丁ほど近くなったわけでした。

 さて、彫工会の発会等もすべて落着し私はこれから大いにやろうと意気組んでいた矢先、大病に罹《かか》りました。
 掛かった医師は友人の漢法医で、合田義和《ごうだよしかず》という人であった。この人は漢法ではあるが、なかなかの名医でありました。
 私の病気は何んとも病名の分らぬ難病であって、一時はほとんど家内のものも絶望した位で、私も覚悟を極《き》めておったのでした。どういう病気かと申すと、身体《からだ》全体が痛む。実に何んともいいようのない疼痛《とうつう》を感じて、いても起《た》ってもいられない位……僂麻質斯《リューマチス》とか、神経痛とかいうのでもなく何んでも啖《たん》が内訌《ないこう》してかく全身が痛むのであるとかで、強《し》いて名を附ければ啖陰性《たんいんせい》という余り多くない病気だと合田氏は診断している。一時は腰が抜けて起つことも出来ない。寝ていても時を頻《しき》って咳《せ》き上げて来て気息《いき》を吐《つ》くことも出来ない。実に恐ろしく苦しみました。
 それで、医師の合田氏は、これはいけないと非常な丹精をしてくれまして、夜も帰宅《かえ》らず、徹宵《てっしょう》附き添い、薬も自身|煎《せん》じて看護してくれられました。その丹精がなかったら恐らく私は生命を取られたことと思いますが、三ヶ月ほどしてようやく快方に趣いたのであった。

 この合田氏という医師は、これまた一種の変人であって、金持ちを嫌《きら》いという人、貧乏人のためには薬代も取らぬというほどに貧窮者に対して同情のあった人で、医は仁術なりという言葉をそのまま実行されたような珍しい人でありました。気性が高潔である如く、医術も非常に上手でありました。私がこういう名医
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング