に友人があってその人の手にあらゆる親切と同情をもって看護されたことは全く私の幸福でありました。

 しかし、私は、既に世の中に顔を出して来てはおったものの、まだまだ木彫りが行われているという世の中にならず、相更《あいかわ》らずの貧乏でありますから、医師にお礼をしたくてもするわけに行きません。大病で、三ヶ月も床に就《つ》いていることだから、生活には追われて来る。知人などの見舞いのものでその日を過ごしていたような有様でありました。けれども、どうにか都合をして薬代だけは払いましたが、合田氏の啻《ただ》ならぬ丹精に対しては、まだお礼が出来ぬので、私はそれを心苦しく感じている中《うち》段々身体も元に恢復《かいふく》して参って、仕事も出来るようになりましたので、日頃念頭を離れぬ合田氏への御礼のことをいろいろ考えましたが、病後の生活にはこれといって適当な方法も考え附かず心ならずも一日一日と送っておりました。さりながら、人の普通《なみ》ならぬ親切を受けてそのままでいることはいかにも気が済まぬ。何か形をもって謝礼の意を致したいものであると私は切に感じていたことであった。

 これより先、私は一人の道具商を知っていました。斎藤政吉といって同業者の間では名の売れた人であったが、この人が明《みん》製の白衣観音を持っておった。それは非常な逸品でもあるというので、斎藤氏が自慢に私に見せてくれた。見ると、自慢するだけのことはあってなかなか優れたものである。で、私もそれがほしい気がして、およそ、幾金《いくら》のものかと聞くと、百五十円だということ、薬代さえもようやく工面をして払った時代のことで、私に金のありよう訳でないから買い取ることは思いも寄りません。で、或る時、斎藤氏にとても自分はあの白衣観音を買うことが出来ぬが、作はいかにも結構と思い、心に残っている。もし、あれを借りることが出来れば、私はあの通りのものを写して置きたいと思うがどうであろう、と話すと斎藤氏は快く承知して私に貸してくれました。

 そこで私は仕事の隙々《ひまひま》を見て、桜の木で、そのままそっくりに模刻をした。そして右の観音を仏間に飾って置いたのでした。ふと、私はこの観音のことに気が附き、これを合田医師へお礼としてはどうであろうと思いました。随分自分としては精神を籠《こ》めて写したものである。写したとはいいながら原作が優れており
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