その道程《みちのり》もほぼ同じこと、恐らく修業の有様も、牙彫木彫の相違はあっても、一生懸命であったことは同じことであったと思われます。但し、石川氏は牙彫であったため、時流に投じ、早く出世をして、世の中へ出て名人の名を贏《か》ち得たので、既に明治十三年の竜池会が出来た時分、間もなくその会員となって、山高、山本、岸などいう諸先生と知り合い、美術のことを研究していられたのであった。もっとも、光明氏が抜群の技倆があってこそかかる幸運に際会するを得たのでありますが、私は、それに反し、木彫りのような時勢と逆行したものにたずさわり、世の中に遅《おく》れ、かかる会合のあることも何にも知らず、十三年から四年目に、初めて石川氏に邂逅《かいこう》して、その伝手《つて》によってようやく世間へ顔を出したような訳随分遅れていたといわねばなりません。
その後|両人《ふたり》は毎度訪ね合っている。
光明氏はしきりと木彫りをやって見たいことなど話され、
「ほんとに木彫りは面白いですねえ。今度の美術会には是非一つあなたの木彫りを出品して下さい。きっとそれは評判になりますよ」
など毎々私に向って勧められる。
「どうも
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