心のほども推察される。この心あってこそ、脳《あたま》も腕も上達するというもの、まだまだ我々は其所までは行かない。名人上手の心掛けはまた別なものだと私は心|私《ひそ》かに石川氏の心持に敬服したことでありました。

 石川光明氏と私とは、嘉永《かえい》五年子歳の同年生まれです。私は二月、石川氏は五月生まれというから、少し私が兄である。
 私は下谷北清島町に生まれ、光明氏もやはり下谷で、北清島町からは何程《いくら》もない稲荷町の宮彫師石川家に生まれた人です(稲荷町は行徳寺《ぎょうとくじ》の稲荷と柳の稲荷と両《ふた》つあるが、光明氏は柳の稲荷の方)。父親に早く別れ、祖父の養育で、十二歳の時に根岸《ねぎし》在住の菊川という牙彫の師匠の家に弟子入りをして、十一年の年季を勤め上げ、年明けが二十三の時、それから日本橋の馬喰町の木地問屋に仕事に通い出したというのですから、その少年時代から青年へ掛けての逕路は、ほとんど私と同じであってただ私が仏師の家の弟子となり、光明氏が牙彫師の家の弟子となったという相違だけです。共に二十三歳にして年が明けてから、一方は松山町から馬喰町へ、一方は清島町から蔵前元町へ通う。
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