たものであっても、それは私の仕事としては社会的に注目されるものではなかったのでありました。
ここで美術協会の起りのそもそもの最初の事を話します。明治十三年頃に、当時或る一部の数奇者《すきしゃ》――単に数奇者といっては意を尽くせませんが、或る一部の学者|物識《ものし》りであって、日本の美術工芸を愛好する人たち――そういう人たちが、その頃の日本の絵画、彫刻その他種々の工芸的製作が日に増して衰退し行く有様を見るにつけ、どうもこのまま打っちゃって置いては行く末のほども案じられる。これは今日において何らか然《しか》るべき輓回《ばんかい》の策を講じなくてはならない、と、こう考え及んだのであります。その人たちというのは、山高信離《やまたかのぶあきら》、山本五郎、納富介次郎《のうとみかいじろう》、松尾儀助《まつおぎすけ》、大森|惟中《いちゅう》、塩田真《しおだまこと》、岸|光景《みつかげ》等十人足らずの諸氏でありました。この人たちは日頃から逢えば必ずこのことを話し合い、何か一つ適当な方法を取ろうではないかというておったが、まず何はとまれ、差し当って、手近な処から一つの催しを始めようではないか、とい
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