幕末維新懐古談
牙彫りを排し木彫りに固執したはなし
高村光雲
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)誡《いまし》められた
−−
「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」
これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。
私もまた、東雲師から、風雲はこういって我々を誡《いまし》められた、といってその話を聞かされたものであります。それで、私の脳《あたま》にも、この言葉が残っている。いい草は下品であっても志はまことに高い、潔い。我々仏師の道を伝うるものこの意気がまるでなくなってはならない。心すべきは今である……とこう私も考えている。それが私のおかしな意地であったが、とにかく、象牙彫りをやって、それを風呂敷《ふろしき》に包んで牙商の店頭へ売りに行くなぞは身を斬《き》られても嫌《いや》なことであった。が、さればといって木彫りの注文はさらになく、注文がないといって坐って待ってもいられない。かくてはたちまち糊口《ここう》に窮し、その日の生計《くらし》も立っては行かぬ。サテ、困ったものだと、私も途方にくれました。
しかし、いかに困ればといって、素志を翻すわけには行かぬ。そこで私は思案を決め、
「よし、俺は木で彫るものなら何んでも彫ろう。そして先方《むこう》から頼んで来たものなら何でも彫ろう」ということにしました。で、木なら何んでも彫るとなると、相当注文はある。注文によってはこれも何んでも彫る。どんなつまらないものでも彫る。そこで、洋傘の柄《え》を彫る。張子《はりこ》の型を彫る(これは亀井戸《かめいど》の天神などにある張子の虎などの型を頼みに来れば彫るのです)。その他いろいろのものを注文に応じて彫りましたが、その代り今年七十一(大正十一年十二月)になりますが、ついに道具屋へ自作を持って売りに行くことはしないで終りました。
こういう風で、この当時は、私の苦闘時代といわばいって好い時であった。
前に申す如く、西町の三番地の小さな家の、一間は土間《どま》、一間は仕事場で、橋を渡って這入《はい》れば竹の格子《こうし》があって、その中で私はコツコツと仕事をやっていた(通りからは仕事場が見えた)。
すると、或る日、前に話した袋物屋の、米沢町の沢田銀次郎が訪ねて来
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング