かるに、わずか三年位の間に、流行というものは恐ろしいもので(もっとも、これは外国貿易品で、欧米人の嗜好が基ではあるが)彫刻の世界は象牙で真ッ白になってしまいました。そうして外人の嗜好に一層投じようと、種々《いろいろ》工夫を凝らすため、したがって大作と称するものが出来、七、八寸から一尺位象牙の木地一杯に作ってその出来栄《できばえ》を競ったもの、されば、その頃は、彫刻といえば象牙彫りのことのように思われ、木の代りに象牙が独り全盛を極め、明治十四年の博覧会の時などは、彫刻は全部象牙彫りで、「象牙にあらざれば彫刻にあらず」という勢いであった。
 されば、従来、木彫家であった島村|俊明《としあき》氏なども世の好尚につれ、沢田(銀次郎)に勧められて牙彫りの方へ代ってしまいました(石川|光明《こうめい》氏は最初より牙彫りをやった人で、当時の流行者の一人であった)。また本郷《ほんごう》天神前《てんじんまえ》に、旭玉山《あさひぎょくざん》という牙彫家がいて弟子の五人十人も持ち、なかなか盛んであった。当時の物価の安い時分でも、一日の手間三円五十銭を得た位、師匠の作はもとより弟子たちの作でもドシドシ売れ捌《
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