る。器量も気立ても好《よ》かりそうだなど自分も考え、明らさまに断わりをいうわけにも行かず、有耶無耶《うやむや》の間に日が経《た》っております中に、その娘の人は、計らず、ふとした病気で亡くなってしまいました。

 その年は暮れ、明けて明治八年、私は二十四となる。
 半年ばかり、一時結婚談も中絶していましたが、またその話が持ち上がる。同時に、私として、どうも、家内を迎えなくてはならないようなことになって来ました。
 これは今まで、大分弱っておられた母が、ドッと臥床《とこ》に就《つ》くというほどではないが、大変に気息《いき》切れがして、狭い家の中を掃くのさえ、中腰になって、せいせいといい、よほど苦しいような塩梅《あんばい》である。私は、どうも、これはいけないと思い、何んとかせんければと心を痛めました。まず、何よりも滋養分を沢山差し上げるがよろしいと思い、その頃、厩橋側《うまやばしそば》に富士屋という肉屋があって、其所《そこ》の牛肉が上等だというので、時々|牝牛《めうし》の好いのを一斤ずつ買って母へ持って行って呈《あ》げました。その頃、私は師匠の家に寝泊まりしていた。当時は肉の佳《よ》いのは牝
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