いる。さて、自分は親が二人、まだ全く一本立ちというには至っておらぬ。しかも母は病気で、家とてもまた貧しい。こういう処へ嫁に来るには、この娘ならばちょうど好くはないか。相当苦労もしていれば、貧乏世帯を張っても、また病人の姑《しゅうとめ》に対しても相当に旨《うま》くやり切って行くかも知れない。どうもあの娘ならば、それも出来そうである――とこう私は思い立ったのであった。
 しかし、自分はそうは思っても、先方の考えはどうであるか、さっぱり分らぬ。ただ、どうも、よさそうに思われることは、お互いに何もないこと、……無財産であることが第一面倒でないから、持つとすれば自分の妻にはこの婦人がよかろうと心を定《き》めました。これは誰から勧められたのでもなく、全く自分の発案《ほつあん》であった。
 そこで私はまずこの考えを母に話しました。
 すると、母もよろこび、この縁を纏《まと》めたいという。さて、そうするとなれば、お若は、やっぱり師匠の気息《いき》の掛かっているものであるから、師匠にも一応相談をしなければならないが、そこを何んとなく、母から師匠に、母だけの考えとしてお若を貰いたい旨を話してもらうようにたのみました。これは、そうする方が穏当でよかったからでありました。
 或る日、母が病中ながら、師匠の家へ出掛け、右の一件を話をすると、師匠は、これはといって大喜び。実は、お若のことはいろいろ心配をしておったが、そこまではちょっと気が廻らなかった。燈台元暗しとはこの事だなど、師匠はこちらからの申し込みを意外と感じてよろこんで、もし幸吉が貰ってくれる段になれば、これに越したことはないが、しかし、幸吉がお若で承知をしてくれるであろうか。元々、私は、この組み合わせは問題にしていなかったのだが……お袋さんだけの考えとあっては、幸吉の承諾がどうも危ぶまれる――など師匠の挨拶《あいさつ》。ところが、元来、当人の幸吉が承知の上で、自分で書いた筋でありますから、これほど確かなことはないので、母も、幸吉も万《ばん》異存はございますまいといって、大喜びで帰って参りました。

 話は早く、早速この縁談は纏まりました。
 条件は、家が貧乏であること、母親が病人であること、この二つを充分承知の上、よくやってもらいたいというのであった。娘の方で、これに不足をいう境遇ではないことはもちろんのことでありました。
 そこで、媒妁人《なこうど》がなくてはならぬというので、誰に頼むかということになったが、私とて、まだこれという友人も出来ない時分、誰に頼んだものかと考えましたが、思い出したのは彼の高橋定次郎氏であります。この人は私がかねてから、その人格その他を尊敬している知人であるばかりでなく、先年、その妹の人とのこともあって、何かと縁がつながっているように思います所から、媒妁人になってもらえば、仲人親《なこうどおや》という位、若くしてこの世を早くした妹|御《ご》のためにも何かと由縁《ゆかり》があるよう感じまして、右の義を師匠に話しますと、それは好い人を見つけた、早速頼むがよかろうというので、高橋氏に話すと快諾してくれましたので、形ばかりの結納《ゆいのう》を取り交《かわ》し、明治八年の十一月七日に、九尺二間の我家で結婚の式を挙《あ》げたのでありました。
 当時、高橋定次郎氏が自ら書かれた結納の書き附けが今以て残っている次第であります。当時、私は二十四歳、お若は十八でありました。
 その夜のお客は、師匠東雲先生、お若の養母おきせさん、仲人の高橋定次郎氏、私の兄の家内に、両親、我々両人、その他一、二名と覚えております。
 この結婚式を挙げて来年がちょうど五十年に相当致します。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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