牛といったものです。ロースだのヒレーだのということは知りません。母は悴《せがれ》の心尽くしですから、魚もきらいな人がこれだけは喜んで食べ、味噌《みそ》や醤油《しょうゆ》につけなどして貯《たくわ》えて食べたりしました。けれども、医師《いしゃ》にもかけましたが、やっぱり加減はよろしき方には向わず、段々大儀が増すばかり故、ついに私も意を決し、これは母のために面倒を見るものが必要であると考えて来ました。ところで、母の手助けをするには、女中《じょちゅう》を置いても事足ることではあるが、女中といってもお大層であり、また親身《しんみ》になって母に尽くすには、他人任せでは安心が出来ず、やっぱり、いっそ、これは家内を貰い、それに一任した方が一番確かであろうという考えから、私はついに家内の必要を感じ、今度は自分から妻を持とうと考え出したのでありました。
ここで、話が八重《やえ》になって少しごたごたしますが、一通り順序を話します。
養母の住居である堀田原《ほったわら》の家には義母お悦さんが住んでいて、時々私は其所へ帰っていた。ところで、このお悦さんの妹が前述のお勝さん、そのまた妹におきせさん(東雲師の末の妹)という人があって、小舟町一丁目の穀問屋《ごくといや》金谷善蔵《かなやぜんぞう》という人の妻となっている。夫婦に子がないので、善蔵の兄に当る杉の森の稲荷地内(人形町《にんぎょうちょう》の先)に当時呉服の中買いをしていた金谷浅吉という人の娘お若というのを引き取って養女にしました。
これはお若の父も亡くなり、間もなく母も世を去って頼《たよ》りなき孤児《みなしご》となったので、引き取り養女としたのであった(お若は金谷善蔵夫婦からは姪《めい》に当る)。
しかるに、金谷善蔵がまた病気になったが、家は穀問屋で、御本丸へ出入りなどあり、なかなか手広《てびろ》にやってはいたが、こうした町家の常で、店は手一杯《ていっぱい》広がっていて、充分気楽に寝て保養をする場所がないので、妻のおきせさんが心配をして、堀田原にいる姉のお悦さんの許《もと》へ来て、
「姉さん、これこれの都合ゆえ、どうか、こちらは人少なで広いから、良人《うち》の保養のために一室借して下さいな」
という訳で、姉妹のことで、お悦さんが早速承知をする。善蔵夫婦がその家へ移って来て、保養をすることになったのです。
私は自分の養家のことですから、時々帰る。おきせさんが感心に良人の看病をしている。私も気の毒に思い、世話というほどのこともしないが何かと心を附けて上げました。それを病中の善蔵さんが大変によろこんで、私を何より頼りとしている。その中《うち》ついに善蔵さんは病|重《おも》り、気息《いき》を引き取る際《きわ》になったが、その際、病人はいろいろと世話になったことを謝し、なお、この上、自分の死後を頼むというのであるらしいが、もはや最後の際でありますから、何をいわれるか、確《しか》とは言葉も聞き取れませんが、何しろ、自分の亡き後のことなど私へたのむということであることだけは分る。妻のおきせさんも附き添い、いずれも涙の中に、病人は繰り返し私に頼む頼むと、いいおりますので、私も、病人の心を察し、快く、畏《かしこ》まりました。御心配のないようにといい慰めている中に、ついに病人はそのまま気息を引き取ってしまいました。
それで、おきせさんは未亡人になり、養女お若は血縁の叔父《おじ》(すなわち餐父)に逝《ゆ》かれ、まことに心細いこととなりました。しかし相当遺産もあり、また里方(東雲師の家)もありますから、未亡人になっても困ることもないが、女の手一つでは穀屋を続けて行くことも出来ないので、店を仕舞いました。
そこで、何んだか、おきせさんは中途半ぱな身になっているので、養女お若の遣《や》り場がないような有様になっている。それで東雲師は、俺の家へお若を伴《つ》れて来て置け、何んとか世話をしてやろうなどいっていられるのを私は知っておりましたが、何んとなく、こうした境遇に落ちて来たお若の身の上が気の毒に思われてなりませんでした。
さて、私は、自分の境遇を考えると、前述のような羽目《はめ》になっている。どうしても、この際、家内を貰わなければならない都合になっている。といって上《うわ》ッ冠《かぶ》りで、妻の身内《みうち》の方から何かと助けてもらうような状態になることなどは好ましくない。今の自分の境遇相当、自分にもさして懸隔《けじめ》がなく、そして気立ての確《しっ》かりした、苦労に耐え得るほどの婦人があれば、それこそ、今が今といっても、家内にしても差しつかえがないと思っているところへ、ちょうど、此所《ここ》にお若という気の毒な境遇に立っている婦人を見出したのであった。その娘は、今、何処《どこ》といって行く所がなくて困って
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