幕末維新懐古談
上野戦争当時のことなど
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)湧《わ》いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)慶応四年|辰年《たつどし》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いくさ[#「いくさ」に傍点]
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慶応四年|辰年《たつどし》の五月十五日――私の十七の時、上野の戦争がありました。
今日から考えて見ると、徳川様のあの大身代が揺ぎ出して、とうとう傾いてしまった時であった。その時、何もかも一緒にいろいろなことが湧《わ》いて来る。先ほど話した通り、四時の循環なども、ずっと変調で、天候も不順、米も不作、春早々より雨降り続き、三、四月頃もまるで梅雨《つゆ》の如く、びしょびしょと毎日の雨で、江戸の市中は到《いた》る処、溝渠《どぶ》が開き、特に、下谷《したや》からかけ、根岸《ねぎし》、上野|界隈《かいわい》の低地は水が附いて脛《すね》を没し、往来も容易でないという有様であったが、その五月十五日もやっぱりびしょびしょやっている。たまに霽《は》れたかと思えば曇《くも》り、むらにぱらぱらと降って来ては暗くなり、陰鬱《いんうつ》なことであった。
当時、師匠東雲の家は駒形町にありまして、私は相更《あいかわ》らず修業中……その十五日の前の晩(十四日の夜中)に森下にいる下職《したじょく》の塗師屋《ぬしや》が戸を叩《たた》いてやって来ました。私が起きて、潜《くぐ》りを開《あ》けると、下職の男は這入《はい》って来て、師匠と話をしている。
「師匠、どうも、飛んでもない世の中になって来ましたぜ。明日《あす》上野に戦争があるそうですよ。いくさ[#「いくさ」に傍点]が始まるんだそうで」
「何んだって、いくさ[#「いくさ」に傍点]が始まる。何処でね」
「上野ですよ。上野へ彰義隊が立て籠《こも》っていましょう。それが官軍と手合わせを始めるんだそうで。どうも、そうと聞いては安閑とはしていられないんで、夜夜中《よるよなか》だが、こちらへも知らせて上げようと思って、やって来たんです。どうも大変なことになったもんだが、一体、どうすれば好いのか、まあ、そのつもりで皆《みんな》で注意するだけは注意しなくちゃなりませんね」
など、いかにも不安そうに話している。
やがて、下職は帰ったが、さて警戒のしようもない。夜が明けたら、また何んとかなろうなぞ師匠は私たちにも話しておられたが、ふと、上野で戦争ということで気が附いて困ったことは、ちょうど、そのいくさ[#「いくさ」に傍点]のあるという上野の山下《やました》の雁鍋《がんなべ》の真後ろの処(今の上野町)に裏屋住まいをしている師匠の知人のことに思い当ったのであります。
その人は師匠の弟|弟子《でし》で杉山半次郎《すぎやまはんじろう》という人、鳳雲《ほううん》の家にて定規通り勤め上げはしたけれども、業《わざ》がいささか鈍いため、一戸を構える所まで行かず、兄弟子東雲の手伝いとなって仕事をさせてもらっていたのでありました。師匠は、この半次郎のことを心配しだしたのであった。
「幸吉、半さんが山下にいるんだが、困るなあ」
「そうですねえ。半さんは、いくさ[#「いくさ」に傍点]の始まるってことを知ってるでしょうか」
「さればさ。あの人のことだから、どうか分らないよ。こっちが先に聞いた上は、一つ、こりゃ半さんに報告《しら》せて上げなくちゃなるまい。夜が明けたら、幸吉、お前は松を伴《つ》れて行って知らしてやってくれ、ついでに夜具|蒲団《ふとん》のようなものでも持って来てやってくれ」
こんな話でその夜は寝《しん》に就《つ》きましたが、戦争と聞いては何んとなく気味悪く、また威勢の好《よ》いことのようにも思われて心は躍《おど》る。
夜は明け、弟弟子の松どんを伴れ、大きな風呂敷を背負い、私は師匠にいわれた通り、半次郎さんの宅へ行くべく家を出ました。
道は駒形町より森下へ出て、今の楽山堂《らくさんどう》病院の所から下谷《したや》御徒町《おかちまち》にきれ、雁鍋の背後へ出ようというのですから、七軒町《しちけんちょう》の酒井大学《さかいだいがく》様の前を通り西町の立花《たちばな》様の屋敷――片側は旗本と御家人《ごけにん》の屋敷が並んでいる。堀を前にした立花の屋敷の所へ差し掛かると、この辺一帯は溝渠《どぶ》が開いて水が深く、私と松どんとは、じゃぶじゃぶと川の中でも歩くように、探り足をしては進んで行くと、何んだか、頭の頂天の方で、シュッシュッという音がする。まるで頭の側《わき》を何かが掠《かす》って行くような音である。何んだろうと、私は松と話しながら、練塀《ねりべい》へ突き当って、上野町の方へ曲がって行こうとすると、其所《そこ》に異様な風体《ふうてい
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