や、稲荷《いなり》ずし、吹矢《ふきや》、小見世物《こみせもの》が今の忠魂碑の建っている辺まで続いておりました。この辺をすべて山王下といったものです。
停車場の向う側は山下町、その先の御徒町の電車通りの角に慶雲寺《けいうんじ》がある。この寺は市川小団次《いちかわこだんじ》の寺で法華宗《ほっけしゅう》です。山の上では今|常磐《ときわ》花壇のある所は日吉《ひえ》山王の社で総彫り物総金の立派なお宮が建っていました。その前の崖《がけ》の上が清水堂《きよみずどう》、左に鐘楼堂。法華堂、常行堂《じょうぎょうどう》が左右にあって中央は通路を跨《また》いで橋が掛かり、これを潜《くぐ》って中堂がありました。此所《ここ》が山中景色第一の所でした。
この辺一帯をかけて、その戦後の惨景は目も当てられず、戦い歇《や》んで昼過ぎ、騒ぎは一段落附いたようなものの、それからまた一騒ぎ起ったというのは、跡見物《あとけんぶつ》に出掛けた市民で、各自《てんで》に刺子袢纏《さしこばんてん》など着込んで押して行き、非常な雑踏。するとたちまち人心は恐ろしいもので慾張り出したのであります。それは官軍が彰義隊から分捕《ぶんど》った糧米を、その見物の連中に分配しますと、我も我もと押し迫り、そのゴタゴタ中に一俵二俵と担《かつ》いで行く……大勢のことで、誰がどうしたのか、五十俵百俵はたちまち消えてなくなる。群集の者は、もう半分分捕りでもする気になり、勝手に振る舞い、果ては上野の山の中へ押し込んで行き、もう取るものがないと見ると、お寺の中へ籠《こ》み入って、寺中の坊さんたちの袈裟衣《けさごろも》や、本堂の仏像、舎利塔などを担ぎ出して、我がちに得物とする。たちまち境内のお寺は残らず空《から》ッぽとなり、金属《かねけ》のものは勾欄《こうらん》の金具や、擬宝珠《ぎぼうし》の頭などを奪って行くという騒ぎで、実に散々な体《てい》たらく……暫くこの騒ぎのまま、日は暮れ、夜に入り、市民は等しく不安な思いで警戒したことであった。
さて、我々の方面はどうかというと、浅草の大通り一帯も、なかなか安閑とはしていられない。吾妻橋は一つの関門で、本所《ほんじょ》一円の旗本御家人が彰義隊に加勢をする恐れがあるので、此所《ここ》へ官軍の一隊が固めていたのと、彰義隊の一部が落ちて来たためちょっと小ぜり合いがある。市中警戒という名で新徴組の隊士が十七、八人|榧寺《かやでら》に陣取っている。異様の風体をしたものが右往左往しているという有様でした。新徴組は市中取り締りとはいうものの官軍だか、賊軍だか分らず、武士の食い詰めものの集団で、余り評判はよくないということであった。
ですから、何事も無政府状態で、市民一般財産生命の危険|夥《おびただ》しく、師匠の家の近辺なども、官軍であるか、彰義隊か分りませんが、所々火を放って行きなどしたもので、しかし雨天続きのため物にならず、燃え上がったのは人々見附け次第消しましたが、不用心|極《きわ》まることでした。師匠の家なども我々は畳を上げ、道具を方附け、いざといえば何処《どこ》かへ立ち退《の》く算段……天候は悪く、びしょびしょ雨で、春というのに寒さは酷《きび》しい。師匠の家では、万一を気遣い、日本橋|小舟町《こふなちょう》の金屋善蔵《かなやぜんぞう》というのへ、妻君と子供だけは預けようということになり、私が妻君の伴《とも》をして立ち退きましたが、浅草見附へ行くと、番兵がいて門は閉《し》まって通ることが出来ない。一々、人調べをしてから、犬潜《いぬくぐ》りから通しているので、私たちも改められて潜り抜けたが、何んだか陰気な不気味なことでありました。
とにかく、上野の戦争といっても、私が目撃したことは右の通り位のもので、戦争の実況などは分りはしませんが、後年知ったことで、当時|御成街道《おなりかいどう》を真正面から官兵を指揮して黒門口を攻撃したのは西郷従道《さいごうつぐみち》さんであったといいます。これは私が先年大西郷の銅像を製作した際、松方侯《まつかたこう》の晩餐《ばんさん》に招かれて行きましたが、その席に大山《おおやま》、樺山《かばやま》、西郷など薩州出身の大官連が出席しておられ、食卓に着きいろいろの話の中、当時のことを語られているのを聞いていると、お国|訛《なま》りのこととて、能《よ》くは聞き取れませんが、おいどんが、どうとか、西郷従道侯の物語りに、御成街道から進撃した由を承りました。
先刻話した群衆の分捕り問題は、後日に到ってやかましくなり厳しい調査があるので、坊さんの袈裟を子供の帯などにくけて使っていたものはその筋へ上げられました。で、いろいろなものがはき[#「はき」に傍点]出され、往来へ金襴《きんらん》の袈裟、種々の仏具などが棄《す》ててあったのを見ました。
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