がする。ドドン、ドドン、パチパチパチという。陰気な暗い天気にこの不思議な音響が響き渡る。何んともいえない変な心持であります。私たちは二階へ上がって上野の方を見ている。音響は引っ切りなしに続いて四隣《あたり》を震動させている。其所にも此所にも家根《やね》や火の見へ上がって上野の山の方を見て何かいっている。すると間もなく、十時頃とも思う時分、上野の山の中から真黒な焔《ほのお》が巻き上がって雨気を含んだ風と一緒に渦巻いている中、それが割れると火が見えて来ました。後で、知ったことですが、これは中堂へ火が掛かったのであって、ちょうどその時戦争の酣《たけなわ》な時であったのであります。
そして、小銃は雁鍋の二階から、大砲は松坂屋から打ち込んだが、別して湯島切通《ゆしまきりどお》し、榊原《さかきばら》の下屋敷、今の岩崎の別荘の高台から、上野の山の横ッ腹へ、中堂を目標に打ち込んだ大砲が彰義隊の致命傷となったのだといいます。彰義隊は苦戦奮闘したけれども、とうとう勝てず、散々《ちりぢり》に落ちて行き、昼過ぎには戦《いくさ》が歇《や》みました。
すると、その戦後の状態がまた大変で、三枚橋の辺《あたり》から黒門《くろもん》あたりに死屍《しし》が累々としている。私も戦争がやんだというので早速出掛けて行きましたが、二つ三つ無惨な死骸《しがい》を見ると、もう嫌《いや》な気がして引っ返しました。広小路一帯は今日とは大分《だいぶ》違い、袴腰《はかまごし》がもっと三枚橋の方へ延び、黒門と袴腰の所が広々としていた。山下の方には、大きな店で雁鍋がある。この屋根の箱棟《はこむね》には雁が五羽|漆喰《しっくい》細工で塗り上げてあり、立派なものでした(雁鍋の先代は上総《かずさ》の牛久《うしく》から出て池《いけ》の端《はた》で紫蘇飯《しそめし》をはじめて仕上げたもの)。隣りに天野という大きな水茶屋《みずぢゃや》がある。甘泉堂《かんせんどう》(菓子屋)、五条の天神、今の達磨《だるま》は元岡村(料理店)それから山下は、今の上野停車場と、その隣りの山ノ手線停留場と、その脇の坂本へ行く道が、元は、下寺《したでら》の通用門で、その脇が一帯に大掃溜《おおはきだめ》であった。その側《そば》は折れ曲がって左右とも床見世《とこみせ》で、講釈場、芝居小屋などあった。この小屋に粂八《くめはち》なぞが出たものです。娘義太夫、おでん
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