幕末維新懐古談
一度家に帰り父に誡められたはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)騒擾《そうじょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人心|恟々《きょうきょう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そば[#「そば」に傍点]
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 今の猫と鼠の話のあった前後の頃おい(確か十五の年)は徳川氏の世の末で、時勢の変動激しく、何かと騒擾《そうじょう》が引き続く。
 それにつけて、四時の天候なども甚だ不順であって、凶作が続き、雨量多く、毎日、じめじめとイヤな日和《ひより》ばかりで、米は一円に二斗八升(一銭に二合八勺)という高値となる。今までは円に四斗もあったものが、こう暴騰すれば世の中も騒がしくなるは当り前である。しかし、米は高くなったからといって、日常のものが、それに伴《つ》れて高くなるということはなく、やっぱり、百で六杯のそば[#「そば」に傍点]は以前通り、職人の手間賃《てまちん》も元通りである。かと思うと、一方には沢庵《たくあん》一本が七十二文とか天保《てんぽう》一枚とかいう高いものになって来る。つまり、経済界が乱調子になったことでありますが、こういう世の中の行き詰まった折から「貧窮人《びんぼうにん》騒ぎ」というものが突発して来ました。
 或る人が中《なか》ノ郷《ごう》の枳殻寺《からたちでら》の近所を通ると、紙の旗や蓆《むしろ》旗を立てて、大勢が一団となり、鬨《とき》の声を揚げ、米屋を毀《ぶ》ち壊《こわ》して、勝手に米穀を奪《さら》って行く現場を見た。妙なことがあるもの、変な話しだ、と昨日目撃したことを隣人に語っていると、もう江戸市中全体にその暴挙が伝播《でんぱ》して、其所《そこ》にも此所《ここ》にも「貧窮人騒ぎ」というものが頻々《ひんぴん》と起っている。それは実にその伝播の迅《はや》さといっては恐ろしい位のもの、一種の群衆心理と申すか、世間はこの噂《うわさ》で持ち切り、人心|恟々《きょうきょう》の体でありました。
 また、或る人のいうには、
「何某の大店《おおだな》の表看板を打ち毀《こわ》して、芝の愛宕山《あたごやま》へ持って行ってあったそうな。不思議なこともあるものだ」
という話。その話を聞いているものは、誰も彼も、妙な顔をしている。昔、やっぱり米騒動のあった折に、大若衆が出て来て、そんなことをしたものだという。やっぱり、今度のそれも大若衆がやったのであろうなど腹の中で考えて一層不安が増し、取り沙汰が喧《やかま》しくなるという風で、物情実に騒然たる有様であった。

 私は、師匠の店におって仕事をしている間、子供心にも、これらの世間話しを聞きますにつけて、自分の両親《おや》たちのことが心配でならないのでありました。一心に毎日の仕事をしている中にも、ふと、家のことを思い出すと、仕事の手を留めて、茫然《ぼんやり》とその事を考えている。今頃、父はどうしていられることだろう。母様は何をしていられることか。……と思い出しますと、どうもこうして師匠の家に自分だけ安閑とはしていられない気がして来るのでありました。
 自分の父は、幼い時、その親が身体《からだ》を悪くされたために、自分の身を犠牲にして、一生懸命一家のために尽くされたという。自分は、その父が家のために尽くしたという年齢よりも、まだ、ずっとおとな[#「おとな」に傍点]になっているのに、こうして、師匠の家に安閑として家のことや、親たちのことを他所《よそ》に見ているというは、何んたる不孝のことであろう。ここはこうしている場合ではない。自分も父のしたように、自分の父に対して、その危急を手助けしなければならない。――
 こう私は思い詰めぬわけに行かなかった。

 或る日、日暮れに、ふらふらと、黙って、師匠の家を出て、親の家へ帰って来ました。
 父は稀見《けげん》な顔をして、私を見ていました。母は、それでも、何かと私に優しいことをいってくれていました。
 私は父に向い、
「実は、世間がいかにも騒々しく、いろいろな噂を聞きますので、家《うち》のことが心配でたまりませんから、明日《あす》からあなたと一緒に商売をして、何なりとお手助けしようと思い、それで戻って参りましたので……」
 こういう意味のことを、恐る恐る述べました。それで父の意も解け、顔色《がんしょく》も和らぐことかと思ったのは間違いで、父は恐ろしく厳励《きび》しい声で、私に怒鳴りつけて来ました。
「馬鹿野郎、汝《きさま》は、もう俺《おれ》のいったことを忘れてしまったか。汝が初め、師匠のお宅へ奉公に出る前の晩、俺は汝に何んといった。一旦《いったん》、師匠の家へ行った以上、どういうことがあろうとも、年季の済まぬ中《うち》にこの家の敷居を跨《また》いでは
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