の小僧の身のこと、師匠のいい附けもせぬものを勝手に彫って見るなぞとはよろしくないと口小言《くちこごと》をいって将来をも誡《いまし》むべきであるのですが、今、こうして師匠自身も尊敬している坊様より、お礼の意味の金子《きんす》を幸吉へというて出されては、その処置に困ったのでありました。
それで、師匠は、その一分銀の使用法を考えて、坊様が帰ってから、ちょうど時刻もお八ツ時《どき》となったこと故(二時から三時の間)思い附きて蕎麦《そば》の大盤振舞《おおばんぶるまい》をすることにしたのでありました。物価の安い時、一分の蕎麦はなかなかある。師匠の家庭は師弟平等主義で、上下の区別を立てず至極打ちとけた家風でありましたから、奥と店とが一緒で、一家内中が輪になって、そのおそばを食べておりました。
其所《そこ》へ私が帰って来ました。
師匠は私の顔を見ると、
「大きにご苦労だった。さあ、今日は蕎麦の大盤振舞だ。お前は蕎麦が好きだ。沢山にお食べなさい」
という言葉。私は少し合点行かず、平生《いつも》のお八ツとは大変に容子が違っていますから、何か、お目出たいことでもあったのかと、その由を師匠に聞くと、
「まあ、好いから、沢山におあがり……」
という。私は好物のことなれば直ちに箸《はし》を取り、お礼をいって食べていると、誰やら、くすくす笑い出します。師匠の妻君《さいくん》も笑い出す。師匠の妹にて、お勝《かつ》という台所を仕切っていられる婦人も笑い出し、「幸さん、ご馳走様《ちそうさま》……」などいい出して、いかにも容子が変であるから、一体、このおそばはどうしたのですと、また問いますと、今まで真面目《まじめ》な顔をしていられた師匠も笑《えみ》をふくみ、
「実は、これは、お前の御馳走なんだ。お前の鼠は逃げて蕎麦になったんだ。遠慮なしに沢山おあがり……」
こういわれて初めて気が附き、あの鼠を棚へ上げたまま、忘れてしまって使いに行ったが、どうしたろう、と店へ行って棚を見ると、鼠は何処へやったかおりません。……しかし、鼠が逃げてそば[#「そば」に傍点]になったとは、いよいよおかしいと思っていると、実は斯々《かくかく》と師匠は私の留守《るす》に起った一条を物語り、世尊院の住職のお目に留まったは好《い》いとしても、今から勝手なことをするようでは末始終《すえしじゅう》身のためにならぬからと、アッサリと注意をされ、その場は笑いで終りました。
その後、この上人《しょうにん》が、鼠一匹のことから、何かにつけて私を愛してくれられ、幸吉へと指名して彫る物を頼まれたことも度々《たびたび》で大いに面目を施したことがありました。この世尊院という寺は本郷《ほんごう》駒込|千駄木《せんだぎ》に今でもあります。
ついでに、も一つ猫の話をしましょう。これは私の少し悪戯《いたずら》をし過ぎた懺悔《ざんげ》ばなしです。
誰でも奉公をした方は覚えがありましょうが、発育盛りの十六、七では、当てがわれただけの食事《もの》では、ややともすれば不足がちなもの……小体《こてい》の家ではないことだが、奉公人を使う家庭となると、台所のきまり[#「きまり」に傍点]があって、奉公人の三、四人も使っておれば、大概お総菜《そうざい》など、朝は、しば[#「しば」に傍点]のお汁、中飯に八《はち》ハイ[#「ハイ」に傍点]豆腐か、晩は鹿尾菜《ひじき》に油揚げの煮物のようなものでそれは吝《つま》しいものであった(朔日《ついたち》、十五日、二十八日の三日には魚を付けるのが通例です)。
或る年の三、四月頃、江戸では鰹《かつお》の大漁で、到《いた》る処の肴屋《さかなや》では鰹の山を為《な》していました。それで何処の台所へもざら[#「ざら」に傍点]に鰹が這入《はい》る。師匠の家でも或る日鰹の刺身《さしみ》がお総菜に出るという塩梅《あんばい》、大漁のお蔭にて久しぶり我々は有難くそれを頂戴《ちょうだい》したことであったが、今申す如く、発育盛りの年輩ですから、おきまりの一人前《ひとりまえ》の刺身位は物の数でもなく、たちまちそれは平らげられてしまいます。おかしいお話だが、実は口よごしといった位のもの……それでかえって物足りない気がして、もっと心行くばかり今の刺身が食べたいという気持になるは無理もなく、台所には、まだ師匠や妻君の分が大分皿に盛られたまま晩食の分が鼠入らずに這入っておりますので、私はどうも、それが気になって、何んとかして一つそれをすっぱりとやってみたくなりましたが、当時師匠の台所は師匠の妹のお勝という婦人が仕切っていますからいかに奥店無差別の平等主義な家庭であっても、そう勝手に台所の権利を攪乱《かくらん》するわけには行きませんから、何んとか旨《うま》い案を考えて、その目当てのものを占領《せし》めてやろうと、店で仕
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング