事をしながら考えましたが、ここに一つ名案が浮かんで来たので、私はそっと台所へやって行きました。
台所へ行くと、其所《そこ》に大根卸しに使った大根の切れッ端がある。それを持って来て、お手の物の小刀で猫の足跡を彫り出したのです。ちょうどそれは梅の花の形のような塩梅《あんばい》に……たちまちそれが一つの印形《いんぎょう》のようなものに出来上がったのを、私は見ていると自分ながらおかしくなったが、しかし、これが名案なのであるから、再びそれを持って台所へ行き、お勝さんのいないのを幸い、竈《へっつい》の灰を今の大根の彫りものの面へなすりつけ、竈の側やら、板の間やらへ猫の足跡とそっくりの型をつけ、あたかも、泥棒猫が忍び込んだというような趣向にした後で、私は鼠入らずの刺身のお皿を取り出し、美事に平らげてやったのでありました。そうして知らん顔をして店へ来て仕事をしておりました。
暫くすると、台所の方で、お勝さんの声で怒鳴っております。何を騒いでいるかと耳を立てると、案の条、鼠入らずの中の刺身がなくなっていることを問題にしているらしく、「あの畜生だ、あの泥棒猫の仕業《しわざ》だ」と怒《おこ》っている。師匠の家にも三毛猫が一匹いるが、裏口《うらぐち》合せの長屋《ながや》の猫が質《たち》が悪く、毎度こちらの台所を荒らすところから、疑いはその猫に掛かっている様子であります。私は心におかしく、なかなか名案だったと思いながら、なお、台所の方へ気を附けていると、また暫くしてから、台所でガタピシと大変な物音がします。何んだろうと窺《のぞ》いて見るとお勝さんが、疑いを掛けたその裏長屋の泥棒猫を捉《つか》まえて、コン畜生、々々といって力任せに鼻面《はなづら》を板の間《ま》へ※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、83−9]《こす》り附けております。物音を聞いて、師匠も其所《そこ》へ立ち出で、様子を聞き「それはお勝、お前が手落ちなんだ。そんなに手荒らにしなさんな。もう好いから許しておやり」などなだめている。
「いえ、いけません。此奴《こやつ》がお刺身を奪《と》ったんです。以後の見せしめに、こうしてやるのです」
と、また鼻面をいやというほど猫は※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、83−14]られておりますから、私は、どうも甚《はなは》だ恐縮……不埒《ふらち》な奴はその猫ではなく、悪戯《いたずら》半分の手細工は自分なので、何んとも早《はや》気の毒千万、猫に対して可愛そうで、申し訳がないような立場、今さら斯々《かくかく》といって出るのも変なもので、少し薬の利《き》き過ぎたことを自分で驚きながら、やっと台所の静かになったのに胸を撫《な》で卸したことがありました。
それ以来、私は、無実の罪を得て成敗《せいばい》を受けた猫のために謝罪する心持で、鰹の刺身だけは口に上《のぼ》さぬように心掛け、六十一の還暦までは、それを堅く守っておりました。六十一は一廻《ひとまわ》りそれからは赤ン坊から生まれ還《かえ》った気持ですから、今日では鰹の刺身も口にするようになりました。他愛のない話であるが、何んの気もなくやった悪戯が存外深い記憶を印しているというはなしで人間一生の中にはいろいろなことがあるものである。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月14日作成
2006年6月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング