と、奥の方から師匠の自分を呼ばれる声がする。びっくりして師匠の前へ参ると、
「幸吉、お前、これから直ぐに大伝馬町《おおでんまちょう》の勝田さんへ使いに行ってくれ、急ぎの用だから、早く……」
と、いうお言葉。畏《かしこ》まって、直ぐに店を飛び出して行きましたが、その時、急な要事というので、鼠のことを打ち忘れ、そのまま、棚の上に置きっぱなしにして出たのでありました。そうして、師用を済まし、私は午後三時頃てくてく帰って来ました。
ところが、その、私の留守中に、店へ来られたお客があった。その方《かた》は上野|東叡山《とうえいざん》派の坊様で、六十位の老僧、駒込《こまごめ》世尊院《せそんいん》の住職で、また芝の神明《しんめい》さまの別当を兼ねておられ、なかなか地位もある方であったが、この方が毎度師匠の許《もと》へ物を頼みに見えられます。今日もそれらの用向きで参られて、師匠と店頭にて話をしておられました。と、ふと、坊様は、師匠に向い、
「先刻《さっき》から、あの棚の上に鼠がいるので妙だなと思っていたのだが、あれは本当の鼠ではないのですね。彫り物なんですね。誰が拵《こしら》えたのですか」
といいながら、起《た》って、その鼠を棚から卸して来て、掌《てのひら》に乗せて、つくづく見ながら、
「これは、どうも、まことによく出来ている。本物と私が見違えたのも無理はない。誰が彫ったのですか」
坊様の興味ありげな言葉に、師匠も初めて心附き、それを見ながら、
「これは、あの幸吉のいたずらでありましょう」
と答えました。
「そうですか。彼児《あれ》がやったのですか。これは私が貰って置きたい。私は実は子《ね》の歳なので、鼠には縁がある。これは譲ってもらいましょう」
「それはお安いことです。幸吉は今使いに参っておりませんが、いたずらにやった鼠がお目に留まって貴僧《あなた》に望まれて行けば何より……」
と、紙に包んで坊様に呈《あ》げてしまいました。
すると、坊様は、折角、幸吉が丹念に拵えたものを只《ただ》で貰うは気の毒、これを彼児《あれ》へお小遣いにやって下さいと一分銀《いちぶぎん》を包んで師匠へ渡しました。
私は留守のこと故、その場の容子《ようす》は見てはいませんから知りませんが、まずこうした順序の妙な事が起ったのでありました。そこで、ちょっと、師匠も困りました。実際ならば、まだほんの年季中
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