幕末維新懐古談
猫と鼠のはなし
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稽古《けいこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)上野|東叡山《とうえいざん》派

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+(「縻」の「糸」に代えて「手」)」、83−9]《こす》り
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 少し変った思い出ばなしをします。鼠の話を先にしましょう。
 私が十五、六歳の時です。師匠の手元にいて、かれこれ二、三年も稽古《けいこ》をしたお蔭《かげ》で、どうやら物の形が出来るようになって来ました。それで、そろそろ生意気になって、何か自分では一廉《ひとかど》の彫刻師になったような気持で、師匠から当てがわれた仏様の方をやるのは無論であるが、それだけではたんのう[#「たんのう」に傍点]出来ないような気持で、何か自分の趣向を立てたもの、思い附いたものを勝手にやって見たいという気が起って来る。もっとも、こういうことは、師匠の眼の前で実行してはお叱《しか》りを受けますから師匠の眼に留まらないような時を見て、朝がけとか、夜業のしまいとかいう時にコッソリといたずらをするのであります。
 けれども、まだ初心のこととて、自分の腕に協《かな》いそうなものでなければ手が附きません。そこで思い附いて彫り出したのが鼠であった。
 それはちょうど実物大の鼠を実物をお手本にする気で考え考え、コツコツと彫り出しましたが、彫り上げて見ると、どうやら形になったような気持……それは檜の材でありますから、真白であるのを、本当の鼠を行くのであるから、自分で考えてちょうどな色をそれに附ける。手に取って打ち返して見れば、さすがに自分の拵《こしら》えたもの故、ほんの遊びいたずらとはいいながら、他のあてがわれた仏様よりも愛念の情が自《おの》ずと深いわけ。或る日、その出来上がった鼠をば、昼食を終ったわずかの休みの暇に、私《ひそ》かに店頭の棚《たな》に乗せて眺《なが》めていました。その頃の仏師の店は前にも申した通り、往来に面した店がすなわち仕事場で、今日の仏師の店と大した相違もないような体裁、往来からも一目に店が見えるのでありますから、私は内外《うちそと》に気兼ねをしながら見ていました。
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