め「聾そば」で通っていた。その隣りが浅利屋という船宿《ふなやど》、此所を浅利屋河岸といった。表通りの金麩羅屋の向うに毛抜き屋があった。この店の毛抜きは上手といわれたもの、いろいろ七ツ道具が揃っていて、しゃれた人たちが買いに来た。それから、錫屋《すずや》というのがあった。この店は江戸市中にも極《ごく》少ない店で、錫の御酒徳利、お茶のつぼ、銚子などを売っていた。
黒船町《くろふねちょう》へ来ると、町が少し下って二の町となる。村田の本家(烟管屋《キセルや》)がある。また、榧寺《かやでら》という寺がある。境内に茅《かや》が植わっていた。それから三好町《みよしちょう》、此所には戯作《げさく》などをした玄魚《げんぎょ》という人のビラ屋があった。
こう話して行くと、記憶は記憶を生んで、何処まで行くか分りませんから、雷門へひとまず帰って、門へ向って左側、広小路へ出ましょう。
此所にはまた菜飯《なめし》茶屋という田楽《でんがく》茶屋がありました。小綺麗《こぎれい》な姉《ねえ》さんなどが店先ででんがくを喰《く》ってお愛想をいったりしたもの、万年屋、山代屋《やましろや》など五、六軒もあった。右側に古本屋の浅倉、これは今もある。それから奴《やっこ》(鰻屋)。地形が狭《せば》まって田原町になる右の角に蕎麦屋があって、息子《むすこ》が大纏《おおまとい》といった相撲《すもう》取りで、小結か関脇位まで取り、土地ッ児で人気がありました。この向うに名代の紅梅焼きがありました。
観音堂に向っては右が三社権現、それから矢大臣門(随身門《ずいじんもん》のこと)、その右手の隅に講釈師が一軒あった。
門を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代な酒屋があった。チロリで燗《かん》をして湯豆腐などで飲ませた。剣菱《けんびし》、七ツ梅《うめ》などという酒があった。馬道へ出ると一流の料理屋富士屋があり、もっと先へ出ると田町《たまち》となって、此所は朝帰りの客を招《よ》ぶ蛤鍋《はまなべ》の店が並んでいる。馬道から芝居町《しばいまち》へ抜けるところへ、藪の麦とろ[#「とろ」に傍点]があり、その先の細い横丁が楽屋新道《がくやしんみち》で、次の横丁が芝居町となる。猿若町は三丁目まであって賑《にぎ》わいました。
山《やま》の宿《しゅく》を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善《やおぜん》がある。その先は重箱
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