《じゅうばこ》、鯰《なまず》のスッポン煮が名代で、その頃、赤い土鍋をコグ縄で結わえてぶら下げて行くと、
「重箱の帰りか、しゃれているぜ」などいったもの。
花川戸から、ずっと、もう一つ河岸の横町が聖天町《しょうでんちょう》、それを抜けると待乳山《まつちやま》です。
「待乳沈んで、梢《こずえ》乗り込む今戸橋」などいったもの、河岸へ出ると向うに竹屋の渡し船があって、隅田川の流れを隔て墨堤《ぼくてい》の桜が見える。山谷堀を渡ると、今戸で焼き物の小屋が煙を揚げている。戸沢弁次という陶工が有名であった。
山谷堀には有明楼《ありあけろう》、大吉《おおよし》、川口、花屋などという意気筋な茶屋が多く、この辺一帯江戸末期の特殊な空気が漂っていました。
また元の道へ引き返して、雷門の前通りを花川戸へ曲がる角《かど》に「地蔵の燈籠《とうろう》」といって有名な燈籠があった。古代なものであったが、年号が刻《き》ってないので何時頃《いつごろ》のものとも明瞭《はっきり》とは分らぬ。小野の小町の石塔だというかと思えば、弘法大師の作であるとか、いずれも当てにはならぬ。中央に地蔵尊を彫り、傍《かたわら》に一人の僧が敬礼をしており、下の方に、花瓶《かびん》に蓮《れん》を挿《さ》してある模様が彫りつけてある。これは西仏といえる人、妻と、男女二子の供養のために建立《こんりゅう》したものということだけは書きつけてあった。大火の際焼けましたが、破片は今も残っていて、花川戸の何処かの小祠《しょうし》にでも納めてあるでありましょう。
観音の地内は、仁王門から右へ弁天山へ曲がる角に久米《くめ》の平内《へいない》の厳《いか》めしい石像がある(今日でもこれは人の知るところ)。久米は平内妻の姓であるとか。元は兵藤平内兵衛《ひょうどうへいないひょうえ》といった人、青山|主膳《しゅぜん》の家臣、豪勇無双と称せられた勇士です。石平道人|正三《しょうさん》(鈴木九太夫)の門人であった。俗説にこの人、武芸の達人で、首斬りの役をして、多くの人命を絶ったにより、その罪業消滅のため、自分の像を石に刻ませ、往来へ抛《ほう》り出し、恨みある人は我を蹴《け》って恨みを晴らせとの希望で、こうして石像を曝《さら》したものであるという……されば、その足で「踏み附ける」という言葉をもじり(文《ふみ》附《つ》ける)という意にして、縁結びの心願の偶
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