にそれを感ずるのであって、自分がいかにお天狗《てんぐ》でも人はそれを許さず、人の評判ばかり高くて虚名がよしあるにしても、楽屋内では、それを許さない。だから自然と公平な優劣判断のようなものが、仲間のなかに分っていたものです。
たとえば、或る仏師の弟子の製作があるとして、それが塗師屋《ぬしや》の手に渡る。塗師屋の主人は、それを手に取って、「オヤこれは旨《うま》いもんだ。素晴らしい出来だ。何処《どこ》から来たんだ。誰の作だ」と訊《き》くと、「それは、何さんの所《とこ》の弟子の何さんという人の作だ」という。それで、その作をした人の名が一人に分り、二人に記憶され、今度、たとえば、その作人がその塗師屋へ使いに行くとして、親方の挨拶《あいさつ》が、ガラリ違って、丁寧になるという塩梅《あんばい》、それはおかしなものであります。
右の如く、弟子たちは、仕事のことに掛けては、一心不乱、互いに劣るまい、負けまいと、少しの遠慮会釈もなく、仕事本位の競争をしますが、内面の交わりとなると、それはまた親密なものでありました。
たとえば、今夜はお鳥様《とりさま》だから、一緒に出掛けようという時に一人の弟子は、
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