幕末維新懐古談
安床の「安さん」の事
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安床《やすどこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|好《い》い弟子を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ほりもの[#「ほりもの」に傍点]師
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 町内に安床《やすどこ》という床屋がありました。
 それが私どもの行きつけの家《うち》であるから、私はお湯に這入《はい》って髪を結ってもらおうと、其所《そこ》へ行った。
「おう、光坊《みつぼう》か、お前、つい、この間頭を結《い》ったんじゃないか。浅草の観音様へでも行くのか」
 主人の安さんがいいますので、
「イエ、明日《あす》、私は奉公に行くんです」
と答えますと、
「そうかい。奉公に行くのかい。お前は幾齢《いくつ》になった」
などと話しかけられ、十二になったから、八丁堀の大工の家へ奉公に参る旨を話すと、安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが、ふと、何か思い出したことでもあるように、
「俺は、実は、人から頼まれていたことがあった。……もう、惜しいことをした」
と、残り惜しそうにいいますので、理由を聞くと、それは元《もと》、この町内にいた人だが、今は大層出世をして彫刻《ほりもの》の名人になっている。何んでも日本一のほりもの[#「ほりもの」に傍点]師だということだ。その人は高村東雲《たかむらとううん》という方《かた》だが、久方《ひさかた》ぶりに此店《ここ》へお出《い》でなすって、安さん、誰か一人|好《い》い弟子を欲しいんだが、心当りはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。俺は、今、お前の話を聞いて、その事を思い出したんだが、実に惜しいことをした……しかし、光坊、お前は大工さんの所へ明日行くことに決まってるというが、それはどうにかならないかい。大工になるのも好いが、彫刻師になる方がお前の行く末のためにはドンナに好いか知れないんだ。……という話を安さんが私の頭を結いながら乗り気になって話しますので、私も子供心にチョイと脳《あたま》が動いて、
「小父《おじ》さん、その彫刻師ってのは、あの稲荷《いなり》町のお店《たな》でコツコツやってるあれなんですか」と私は使いに行く途中にその頃あったある彫刻師の店のことをいい出し
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