か、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄《こころがら》ではないので、父の兼松は九歳の時から身体《からだ》の悪い父親の一家を背負《せお》って立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目《はめ》になったので、そのためとうとうこれという極《き》まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々《いろいろ》の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏《まと》まったものにならなかったことでありました。
祖父に当る富五郎は八丁堀《はっちょうぼり》に鰻屋《うなぎや》をしていたこともありました。その頃《ころ》は遊芸が流行で、その中《うち》にも富本《とみもと》全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能《たんのう》でありましたが、わけて総領娘は大層|上手《じょうず》でありました。父娘《おやこ》とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉《ひとかど》の富本の名人になろうと評判
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