亡びゆく森
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)俤《おもかげ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|殖《ふ》えて
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひら/\と
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伊勢山から西戸部の高地一帯(久保山を含んで)にかけて、昔は、可なりに深い森林があつたらうと思はれる、その俤《おもかげ》の割合に保存されてるのは、今私の住居してゐる山王山附近である、もとよりこれぞといふ目ぼしい樹木もなく、武蔵野や相模原に、多く見るやうな雑木林で、やはり楢《なら》が一番多く、栗も樫《かし》もたまには交《まじ》つてゐる。
この頃のやうな若葉時になると、薄く透明な黄味を含んだ楢の葉が、柔々しい絹糸のやうな裏毛を、白く光らせて、あつちでも、こつちでも、ひら/\と波頭のやうに、そよ風に爪立つてゐる。傍に近寄つて見ると、土の匂ひのしさうな、黒ツぽくて浅い裂け目のある、無格好の幹から、滑べツこい灰白の小枝が、何本も出て、その小枝からは、鮮やかな薄緑の葉が、掌《てのひら》を返すやうに、取ツ組み合つて密集してゐる、同じ楢の中でも、私は殊にコナラの葉を美しいと思ふ、先の尖《とが》つた篦《へら》形の葉の縁辺を、鋸《のこぎり》の目立のやうな歯と歯が内向きに喰い込んで、幾枚となく小さい掌を重ねたやうな若葉が、上になつたり下になつたりしてゐる戯れを、もどかしさうに見下して、黒松が大手をひろげて、虚空をぴたりと抑へつけてゐる、黒ツぽい程、濃緑の松の葉の傘は、大概楢よりも高く挺《ぬ》き上つて、光線を容易に透《とほ》しさうもなく、大空にひろがつてゐる、森の中をさまよひながら、楢の葉の大波を掻《か》き分けて行くと、方々にこの黒松の集団が、印度藍《インヂゴー》の岩壁のやうに突つ立つてゐる、それが疎《まば》らの林を、怖ろしく厚ぼつたくも見せるし、又遠くからは、青空に黒く塊《かた》まつた怪鳥のやうにも見える。
春の宵は、森の中が寝静まつたやうにひつそりとして、青葉若葉の面が、霞がかゝつたやうに曇つて来る、冷たい、水のやうな、浅黄色の空は、下弦の月が黄金色に光つたときは、柔かい吐息が、あの銀色をした温味のある白毛の衾《しとね》から、すやすやと聞えやうかと耳を澄ます、五月雨《さみだれ》には、森の青地を白く綾取《あやど》つて、雨が鞦韆《ブランコ》のやうに揺れる、椽側《えんがは》に寝そべりながら、団扇《うちは》で蚊をはたき、はたきする、夏の夜など、遠い/\冥途《めいど》から、人を呼びに来るやうな、ボウ、ボウと夢でも見るやうな声が、こんもりした杉の梢から、あたりの空気に沁み透つて、うつゝともなく、幻ともなく、神経にひゞく、「梟《ふくろふ》が啼《な》き出したよ」と、宅の者はいふ、ほんとうに梟であるか、どうか、私は知らないが、世にも頼りのなさゝうな、陰惨たる肉声が、黒くなつた森から濃厚な水蒸気に伝はつて、にじみ出ると、生活から游離された霊魂が、浮ばれずにさまよつてゐるのではなからうかと思はれて、私は大地の底へでも、引き擦《ず》り入れられるやうに、たゞもう、味気《あぢき》なく、遣《や》る瀬のない思ひになつてくる。
それよりも秋の夜は、箱根大山辺からの、乾《から》ツ風が吹き荒《すさ》んで、森の中の梢といふ梢は、作り声をしたやうに、ざわ/\と騒ぎ立ち、落葉が羽ばたきをしながら、舞ひ立つて、夜もすがら戸を敲《たゝ》き、屋根を這《は》ひずり廻る、風の無い夜は、朝起きて見ると、森の中一杯に剣の光を含んだ霜が下りてゐる、その夕暮に、久保山の人焼く煙を、疎林の中の逍遥に見たこともある、秋の末から冬になると、何々谷戸といふ特種の部落に属する人たちの若い娘などが、落葉籠をしよつて薪を折りに、林の中をうろついてゐるのに出遇ふ。
私は中学校の裏から、久保山へ抜ける森の中の落葉道で、その一人にひよつくり遇つたことがある、継ぎ剥《は》ぎの衣物《きもの》ながら、頸《くび》から肩へかけて、ふつくらした肉の輪廓が、枯れ残つた櫨《はぜ》の赤い葉蔭に、うす暗く消えて、引き締つた浅黒い円味のある顔にパツチリとした眼が、物思はしげに見えた、無言で行き遇つて、無言で通り過ぎたが、ツルゲネフの少年時代に、森蔭で農奴《サアフ》の少女に、髪の毛をいぢられたことを、四十年も後になつてから、生々と描いてゐることを憶《おも》ひ出した。
山王山から久保山に亘つて、森の中は静かではあるが、空気は冷たくない、森の戸《ドーア》を開けて入ると、地形がおのづと幾つもの室を作つてゐる、森の茂つてゐるところは、大概高地で、そこから落ち窪んだところは、池になり、畑になり、又谷戸にもなつてゐる、豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ綽名《あだな》があつて、特殊の部落も、そ
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