の窪地にある、かういふ部落が、新開港場の横浜にあるのは、珍しい、さうして下町の「文明人」よりは、彼等の方が、土地の草分けをした先入主人ではないかと思はれる。
 彼等は森林で衣食こそしてゐないが、大概森林の蔭で、ジメ/\した、生活をしてゐる、今でも森の下道の、谷に落ち込んだところを瞰下《みおろ》すと、菜の花や青麦の畑が少し許《ばか》りあつて、その傍の一軒家には、風呂桶も置いてあれば、臼も転がつてゐる、森に人声がすると、飼犬がムヤミに吠《ほ》えたてる、さうして森の侵入者を追ひ返さうとしてゐる。
 併し下町は、侵入者と侵入者が、鎬《しのぎ》を削つて、追ひつ追はれつ、入り乱れてゐる、電車線の一端が夕日に光つて、火に舐《な》められたやうに赤くなりながら、ずん/\森の中まで延《の》しかゝつて来た、戸部線の電車が、ビユウ/\呻《うな》り初めてからといふものは、死滅を宣伝する皺嗄《しやが》れ声が、森の方々から走つて、鋸や規尺を持つて入り込むものが、毎日|殖《ふ》えて、森の中でも目ぼしい木は、鋭い利鎌《とかま》で草でも薙《な》ぐやうに伐《き》り仆《たふ》され、皮を剥がれ、傷つけられ、それから胴切にされてしまふ、今までは私の宅の周囲も、森林で厚肉の蒼黯《あをぐろ》い染色硝子《ステインドグラス》を立てゝゐたが、一角だけを残して、殆んど全部が、滅茶滅茶に破壊された、亡び行く森の運命を予言して、引き留める袂《たもと》を振りちぎつて、後を晦《くら》ました巫女《みこ》のやうに、梟も何処へやら影を隠したと見え、啼き声も、一両年前から聞えなくなつた。
 自然界にも怖るべき革命が来たのだ、森林といふ原始の自然は、今迄は此《この》山王山を繞《めぐ》る外廓となつて、下町から来る塵埃《ぢんあい》を防いでゐた、烈しい生存競争から来る呻り声も、此森林の厚壁に突き当つては、手もなく刎《は》ね返されてゐた、したが人間の生活といふ濃厚な低気圧は、森の中を目がけて、面も振らずに突進する、森林の壁一重を隔てゝ、内には寺院があり、墳墓があり、孤児院と救護所があり、赤い旗を立てた、山桜の美しく咲く稲荷《いなり》がある、外には工場があつて、煙突から煙を吐き、自動車が臭い瓦斯《ガス》を放散して時には人を引き倒して、後をも見ずに駈け出す、芝居と、遊廓と、待合と、料理屋があつて、そこに、「悪の華」が咲いてゐる、森は動的生活と、静的生活を仕切る壁であつた。
 私が山王山を知つてから、いづれも生活の敗残者であらう、この森の中で、首縊《くびくゝ》りが二人ばかりあつた、人目を避けるに、都合がいゝとは言ひながら、不思議なことに、死ぬ人は原始的に安息な自然を選ぶ、川や海に身を投げる人と森の中で縊《くび》る人と。
 今となつてみると、新雪の輝やく富士山がよく見えぬからと言つて、出洒張《でしやば》つた杉木立の梢を恨《うら》んだのは、勿体《もつたい》ない気がする。
 私は毎朝起きると、二階の戸を一二枚開けては、向ふの森を見る、樫の木は黄味の克《か》つた、薄赤い葉をつけて、枝が傘をひろげたやうに、丸くなつてゐる、杉の鮮やかな新芽は、去年ながらの黒く煙つたい葉の上に、青い珠《たま》を吐いてゐて、腕ツ節の強さうな、瘤《こぶ》だらけの黒松が、五六本行列はしてゐるものゝ、その木と木の間ががらんとして、森にあるべき茂味《しげみ》といふものがまるでない。
 さうして、その空地や、新しく均《な》らされた土の上には、亜鉛屋根だの、軒燈だの、白木の門などが出来て、今まで真鍮《しんちゆう》の鋲《びやう》を打つたやうな星の光もどうやら鈍くなり、電気燈が晃々《くわう/\》とつくやうになつた。
 どこを見ても家だ、人間だ、電線だ、塀だ、門だ、私の頭は楯で押されるやうな高圧力を感じてゐる、二階の書斎には、かういつた峻烈な空気を幾分か調停するつもりで、友人の描いた青々した信州高原の花野や、木曾の峡谷や、日本アルプスの万年雪などの水彩画をかけつらねてある、手作りの粗《あら》ツぽい書棚には、ラスキンの論文集、ツルゲヱネフの小説、それから森林生活の聖老ソローの全集、コンラツドの海の文集、ラルフ・コンノルのスカイ・パイロツトのやうなものまで積み上げて、この窒素の多い空気の中から、強《しひ》ても酸性の呼吸をつかうとした。
 前の晩に遅く帰つた、その翌《あ》くる朝のこと、起き上つて、いつもの通り、二階から森を見ると、急に薄ら寒くなつて、羽目板へ押しつけられるやうな気がした、風情のよかつた樫の木が、伐り倒されて、紅を含んだ水々しい葉が消え失せ、森は前歯を抜かれたやうに、ガランとしてゐる、さうして灰色の空が、鈍い白壁のやうに、間《ま》の抜けた顔をして、ぼうと立つてゐる、私の網膜には錯乱の影が映つた、もう残つてゐるものは、見る影もない松と杉が五六本あるばかりだ
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