霧の不二、月の不二
――明治三十六年八月七日御殿場口にて観察――
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瞰《み》る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)柴野栗山先生|讚嘆《さんたん》して
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]苳《ふき》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)悠々《いう/\》と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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不二より瞰《み》るに、眼下に飜展《ほんてん》せられたる凸版地図《レリイヴオ・マツプ》の如き平原の中《うち》白面の甲府を匝《め》ぐりて、毛ばだちたる皺《しわ》の波を畳《たゝ》み、その波頭に鋭峻《えいしゆん》の尖《とが》りを起《た》てたるは、是《こ》れ言ふまでもなく金峰山、駒ヶ嶽、八ヶ嶽等の大嶽にして、高度いづれも一万尺に迫り、必ずしも我不二に下らざるが如し、不二は自らその高さを意識せざる謙徳の大君なり、裾野より近く不二を仰ぐに愈《いよい》よ低し、偉人と共に家庭居《まとゐ》するものは、その那辺《なへん》が大なるかを解する能《あた》はざるが如し。この夏我金峰山に登り、八ヶ嶽に登り、駒ヶ嶽に登る、瑠璃《るり》色なる不二の翅脈《しみやく》なだらかに、絮《じよ》の如き積雪を膚《はだへ》の衣に著《つ》けて、悠々《いう/\》と天空に伸《の》ぶるを仰ぐに、絶高にして一朶《いちだ》の芙蓉《ふよう》、人間の光学的分析を許さゞる天色を佩《お》ぶ、我等が立てる甲斐の山の峻峭《しゆんせう》を以てするも、近づいて之《これ》に狎《な》るゝ能はず、虔《つゝ》しんでその神威を敬す、我が生国の大儒、柴野栗山先生|讚嘆《さんたん》して曰《いは》く「独立原無競、自為|衆壑宗《しゆうかくのそう》」まとことに不二なくんば人に祖先なく、山に中心なけむ、甲斐の諸山水を跋渉《ばつせふ》しての帰るさ、東海道を汽車にして、御殿場に下り、登嶽の客となりぬ。
旅館の主人、馬を勧め、剛力《がうりき》を勧め、蓆《ござ》を勧め、編笠《あみがさ》を勤む[#「勤む」はママ]、皆之を卻《しりぞ》く、この極楽の山、只《たゞ》一本の金剛杖《こんがうづゑ》にて足れりと広舌《くわうぜつ》して、朝まだき裾野を往《ゆ》く。
市街を離れて里許《りきよ》、不二の裾野は、虫声にも色あり、そよ吹く風にも色あり、色の主《あるじ》を花といふ、金色星の、夕《ゆふべ》下界に下りて、茎頭《けいとう》に宿りたる如き女郎花《をみなへし》、一輪深き淵《ふち》の色とうたはれけむ朝顔の、闌秋《らんしう》に化性《けしやう》したる如き桔梗《ききやう》、蜻蛉《とんぼ》の眼球の如き野葡萄《のぶだう》の実、これらを束ねて地に引き据《す》ゑたる間より、樅《もみ》の木のひよろりと一際《ひときは》高く、色波の旋律を指揮する童子の如くに立てるが、その枝は不二と愛鷹《あしたか》とを振り分けて、殊《こと》に愛鷹の両尖点《りやうせんてん》(右なるは主峰越前嶽にして位牌《ゐはい》ヶ嶽は左の瘤《こぶ》ならむ)は、躍《をど》つて梢に兎耳《とじ》を立てたり、与平治《よへいじ》茶屋附近虫取|撫子《なでしこ》の盛りを過ぎて開花するところより、一里茶屋に至るまで、焦砂《せうさ》を匂《にほ》はすに花を以てし、夜来の宿熱を冷《ひ》やすに刀の如き薄《すゝき》を以てす、雀《すゞめ》おどろく茱萸《ぐみ》に、刎《は》ね飛ばされて不二は一たび揺曳《えうえい》し、二たびは青木の林に落ちて、影に吸収せられ、地に消化せられ、忽焉《こつえん》として見えずなりぬ、満野《まんや》粛《しゆく》として秋の気を罩《こ》め、騎客《きかく》草間に出没すれども、惨《さん》として馬|嘶《いなゝ》かず、この間の花は、磧撫子《かはらなでしこ》、蛍袋《ほたるぶくろ》、擬宝珠《ぎぼうし》、姫百合、※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]苳《ふき》、唐松草等にして、木は百中の九十まで松属《まつぞく》の物たり。
一里松附近より、角度少しく急にして、大木を見ず、密々たる灌木《くわんぼく》、疎々《そゝ》たる喬木《けうぼく》の混合林となりて、前者を代表するに萩《はぎ》あり、後者には栗多く、それも大方は短木、この辺より不二は奈良の東大寺山門より大仏を仰ぐより近く聳《そび》え、半《なかば》より以上、黄袗《くわうしん》は古びて赭《あか》く、四合目辺にたなびく一朶《いちだ》の雲は、垂氷《たるひ》の如く倒懸《たうけん》して満山を冷《ひ》やす、別に風より迅《はや》き雲あり、大虚を亘《わた》りて、不二より高きこと百尺|許《ばかり》なると
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