ころより、之《これ》を翳《かざ》し、山膚に皹《ひゞ》を入る。雲消えて皹も亦《また》拭《ぬぐ》ひ去らる、山色何の瑠璃《るり》ぞ、只《た》だ赭丹《しやたん》赭黄なる熔岩《ようがん》の、奇醜《きしう》大塊を、至つて無器用に束ねて嶄立《ざんりつ》せるのみ、その肩を怒らし胸を張れるを見て、淑美《しゆくび》なる女性的崇高を知らず。
馬返しより太郎坊まで、羊歯《しだ》の小自由国や、蘚苔《せんたい》の小王国を保護して、樅落葉松の純林、戟《ほこ》を揃《そろ》へて隣々相立てるあり、これありて裾野の柔美式なる色相図《しきさうづ》に、剛健なる鉄銹色《てつしうしよく》を点《とも》し、無敵の冬をも呵《か》して、一路空山|料峭《れうせう》の天に向ひて立つものあるなり。
太郎坊を出づるや一変して喬木を見ず、灌木はミヤマ榛《はん》の木の痩《や》せさらばひたるが僅《わづか》に数株あるのみ、初めは草一面、後は焦沙《せうさ》磊々《らい/\》たる中に、虎杖《いたどり》、鬼薊《おにあざみ》及び他の莎草《しやさう》禾本《くわほん》を禿頭《とくとう》に残れる二毛の如くに見るも、それさへ失《う》せて、霧|沸々《ふつ/\》として到るに遇《あ》ふ、天そゝり立つ大嶽とは是《こ》れか、眼前三四尺のところより胴切に遇ひて、殆《ほと》んど山の全体なるかを想はしむ、下界|屡《しばし》ば見るところの井桁《ゐげた》ほどなる雲の穴より或《あるい》は皺《しわ》を延ばし、或は畳《たゝ》めるは、応《まさ》にこの時なるなからむや、今は山と、人と、石室と、地衣植物と、尽《じん》天地を霧の小壺《せうこ》に蔵せられて、混茫《こんばう》一切を弁《べん》ぜず、登山の騎客は悉《こと/″\》く二合二勺にて馬を下る。
二勺より路は黒鉄《くろがね》を鍛へたる如く、天の一方より急斜して、爛沙《らんさ》、焦石《せうせき》、截々《せつ/\》、風の噪《さわ》ぐ音して人と伴ひ落下す、偶《たまた》ま雲を破りて額上|微《かす》かに見るところの宝永山の赭土《あかつち》より、冷乳の缸《かめ》を傾けたる如く、大霧を揺《ゆ》るよと見る間に、急瀬《きふらい》上下に乱流する如くなりて、中霄《ちゆうせう》に溢《あふ》れ、片々|団々《だん/\》、※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《さか》れて飛んで細かく分裂するや、シヤボン球の如き小薄膜となり、球々相|摩擦《まさつ》して、争ひて下界に下る、三合四合、皆天には霧の球、地には火山の弾子《だんし》、五合目にして一天の霧|漸《やうや》く霽《は》れ、下に屯《よど》めるもの、風なきに逆《さか》しまに※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あ》がり、故郷を望んで帰り去《い》なむを私語《さゞめ》く。この登山に唯一のおそろしきものゝやうに言ひ做《な》す、胸突《むなつき》八丁にかゝり、暫く足を休めて後を顧《かへりみ》る、天は藍色に澄み、霧は紫微《しび》に収まり、領巾《ひれ》の如き一片の雲を東空に片寄せて、透《す》きわたりたる宇宙は、水を打つたるより静かなり、東に伊豆の大島、箱根の外輪山、仙窟《せんくつ》に醸《かも》されたる冷氷の如き蘆《あし》の湖、氷上を跣《す》べりて僵《たふ》れむとする駒ヶ嶽、神山、冠ヶ嶽、南に富士川は茫々《ばう/\》たる乾面上に、錐《きり》にて刻まれたる溝《みぞ》となり、一線の針を閃《ひらめ》かして落つるところは駿河の海、銀《しろがね》の砥《と》平らかに、浩蕩《かうたう》として天と一《いつ》に融《と》く。
銀明水に達したるは午後七時に垂《なんな》んとす、浅間社前の大石室に泊す、客は余を併せて四組七人、乾魚《ほしうを》一枚、麩《ふ》の味噌汁一杯、天保銭大の沢庵《たくあん》二切、晩餐《ばんさん》の総《す》べては是《かく》の如きのみ、葉マキ虫の葉を綴《つゞ》りて寝《い》ぬる如く、一同皆|蒲団《ふとん》に包《くる》まりて一睡す。
夜九時、大風|室《むろ》を四匝《しさふ》せる石壁を透徹して雷吼《らいこう》す、駭魄《がいはく》して耳目きはめて鋭敏となり、昨夜御殿場旅館階上の月を憶《おも》ひ起し、一人|窃《ひそか》に戸を排して出で、火孔に吹き飛ばされぬ用心して、這《は》ふが如く剣ヶ峰に到り、その一角にしがみ附きて観る。
霧収まりて天低う垂れ、銀錫《ぎんしやく》円盤大の白月、額に当つて空水流るゝこと一万里、截鉄《せつてつ》の如き玄沙《げんさ》※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]忽《しゆくこつ》として黒|玻璃《はり》と化す。雲の峰一道二道と山の腋《わき》より立ち昇りて、神女白銀の御衣《みけし》を曳《ひ》いて長し、我にいま少し仙骨を有するの自信あらば、駕《が》して天際に達する易行道《いぎやうだう》となしたりしならむ、下は即《すなは》ち荒※[#「二点しんにょう+貌」、第
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