口にもあるが、大宮口の傾斜が、もっとも峻急であると思う、焼岩の大きな割れ目の内部は、光沢《つや》麗《うるわ》しい灰青色の熔岩が露《あら》われている、三島岳つづきの俵岩《たわらいわ》の亀裂せる熔岩塊と、すれすれによじ登ったが、ベエカア山や、フッド山の氷河を渉《わた》った釘靴《くぎぐつ》をはいていたので、釘が熔岩の裂け目に食い込み、すべりもせずに頂上に出られた。頂上には旅人宿《はたごや》めいた室、勧工場《かんこうば》然たる物産陳列所、郵便局、それから中央の奥宮社殿は、本殿、幣殿《へいでん》、拝殿の三棟に別れて、社務所、参籠所《さんろうしょ》も附属している。案内記に「四壁|屋蓋《おくがい》畳むに石をもってし」とある通りで、奥宮を中心とする山の町である。実に日本国中、最高の町である。アルプスのモン・ブランにもなく、シエラ・ネヴァダのマウント・ホイットニイにも見られない町である。浅間神社の主典《しゅてん》、富士武雄氏の好意ある接待に預かり、絵ハガキや案内記を頂戴する。絶頂の郵便局から、大宮町の大山さんと電話通信をした。日本の一番高い町から、もっとも低い町への通話である。その間に茨木君は「コノシロ」池の写生に出かけられた。大宮方面の案内者は、深沢弥作といって、親切な男であったことを附記する。
富士の四合目から以上を輪切りにすれば、木山に対するいわゆる石山で、イワツメグサ、オンタデなど、薄い髪の毛のような草はあっても、眼にいらず、ただ見上げるばかりの岩石の堆積である。それも熔岩と砂礫の互層や、岩脈のほとばしりを露出して、整然たる成層美を示すところもあるが、多くは手もつけられないほど、砂礫や灰を放擲《ほうてき》したようで、紛雑《ふんざつ》を極めている。その石も巨大なるブッ欠《か》きや、角の取れない切石や、石炭のかすのような「つぶて」で、一個一個としては、咸陽宮《かんようきゅう》の瓦一枚にすら如《し》かないものであるが、これが渾然《こんぜん》として、富士山という創造的合成を築き上げたとき、草も、木も、人も、室も、この中へと融合同化してしまう。そして、山体の完備を欠損するかの如くに見える放射状の側火山も、同心円の御中道も、輻射状の谷沢も、レイニーア山や、フッド山が、氷河を山頂、または山側から放流して、山の皮膚ともなり、山それ自体の一部ともなってしまうように、かえって創造的合成の効果を献《ささ》げている。近く視《み》れば富士は乱雑の美であり、遠く観れば合成の美である。これが私の富士の見方である。
十 八ヶ岳高原
富士を下りてから八ヶ岳に向った。まだ夜の明け切らぬうち、甲府で汽車を捨てた。甲斐山岳会長若尾金造氏が待ち受けて、一とまず常磐町の同氏邸宅前まで、自動車で伴い行かれ、ここで弁当などを積み込み、大沢照貞氏と、田富小学校長|輿石《こしいし》正久氏が加わり、自動車で八ヶ岳の高原へと走らす。私がまだ米国に渡らぬ先に、甲府で山梨山岳会が設立せられ、講演会に引き出されたこともあったが、時非にして、永続きせず、その後甲斐山岳会が更生して、若尾氏をはじめ『日本南アルプスと甲斐の山旅』の著者平賀文男氏、白峰および駒ヶ岳に力こぶをいれる白鳳会の人たち、その他、甲府全市の知識階級の郷土愛は目ざましく、南アルプスの山々、昇仙峡の谷、八ヶ岳高原、富士五湖を紹介するに全力的になっていられる。甲斐絹《かいき》、葡萄、水晶の名産地として、古くから知られた土地ではあるが、甲斐を顕揚するものは、甲斐の自然その物であらねばならぬ。瑞西《スイス》が、一面工業国でありながら、山水美をもって、世界の旅客を引きつける魅力は、甲斐の自然が、またこれを備えている。今は甲斐の自然が、人文の上に輝き始める回春期である、甲斐の文芸復興は、恐らくその洪大《こうだい》なる自然の上に打ち建てられるであろう。私は帰朝以来、甲府に二回遊んだが、これらの人々の郷土愛の熱心さには、いつも若返る力を身内におぼえる。
この日は、前夜からの雨天で、八ヶ岳は、すッぽり雲に包まれ、目前にあって見ることが出来ない。安都玉村の素封家《そほうか》、輿水《こしみず》善重氏の宅で小休みする。善重氏は、文墨《ぶんぼく》のたしなみがあり、菅原白竜山人のかけ幅や、板垣退助伯が清人《しんじん》霞錦如《かきんじょ》の絵に題字せられた幅物などを愛蔵せられて、私たちの見るに任せられた。ここから土地の案内に精《くわ》しい輿水象次氏が一行に加わって、泥道を歩き始める。川俣川にかけた橋を渡って、大門川の峡流を見下しながら、弘法水《こうぼうみず》に立ち寄り甘美な泉をむすんで飲む。そこから山路へかかって、落葉松の森にいる。糸の如くに降りしきる雨の中にたたずんで、モミや落葉松の美しい木立に見とれる、この辺《へん》から、裾野式の高原を展開して、桔梗《ききょう》がさき、萩がさき、女郎花《おみなえし》がひょろひょろと露けく、キスゲが洞燈《ぼんぼり》のような、明かる味をさしている。羽虫が飛び、甲虫が歩く。この旅行の目的は、八ヶ岳はもちろんとして、東麓の「美し森」の植物、殊に一千二、三百メートルから、一千七百メートル位までに、錦を流すところの、ドウダンツツジ、イワツツジ、山ツツジ、レンゲツツジなど石楠花《しゃくなげ》科に属するツツジ類の大群落を探るにあったが、雨が降りしきるので、飯盛《いいもり》山のもうろうたる姿を見たばかり、八ヶ岳へ寄りつけないので、「美し森」は来るべき紅葉の季節を待つことにして、佐久街道に出で、名高い念場ヶ原を、三軒家あたりまで横断し、また安都玉村の輿水氏宅まで引返し、昼飯《ひるめし》を済ませたりした。
私が八ヶ岳に興味を有するのは、あながちに富士火山帯の一高峰として、富士の姉妹山であるばかりでなく、そのくずれた火山形にある、即ち外輪山の火口壁が欠損して、最高点の赤岳をはじめ、硫黄岳、権現岳、擬宝珠《ぎぼし》岳、西岳などの孤立峰を作って、それが山名の八ヶ岳の数を、それぞれ満たしているが、富士の蓮華八葉の如き、浅い切り込でなく、深刻に切断されたところの八ヶ岳である。しかし、より多くの興味は、八ヶ岳の欠損した絶頂を、原形に還元して盛上げて見ると、恐らく富士山よりも、遥に高い山になりそうなことである。それは米国の「火口湖国立公園」を抱いているマザマ山の頂部が、今は陥没しているが、これを原形に還元すれば、一万四、五千尺の高さに達するであろう、といわれている如く、またタコマ富士と呼ばれているところの、レイニーア山の欠頂円錐《けっちょうえんすい》を、原始の状態に回復すれば現在の一万四千尺が、一万六千尺以上の高さになるであろうと称せられる如きおもかげを、この八ヶ岳の空線にも存していることである。日本で富士山よりも高い火山を、欠損空線を継ぎ合せ、盛り上げることによって、創造してゆく快味は、八ヶ岳高原にたたずんで、始めて得られるのである。不幸にして、きょうは雨のために、この快味は総《すべ》て失われた。が草木が洗われて、富士山と釜無《かまなし》川の大断層と、南アルプスや、関東山脈の高屏風《たかびょうぶ》に囲まれた日本最大の裾野が、大空を持ちあげるばかりの力をみなぎらして、若い力から溢れる鮮新味で輝きわたるのを見たことを悦《よろこ》ぶ。
帰りがけに、雨も小止みになったので、自動車で韮崎《にらさき》の町を突き切り、釜無川の東岸に沿うて、露出しているところの七里岩を、向う岸の美しい赤松の林から眺めた。八ヶ岳の泥流が作りあげた凝灰《ぎょうかい》質、集塊岩の美事なる累積である。それが甲斐と信濃の境、鳳来附近から、一気に押し寄せて来ているのだから驚く。
帰り路に、若尾、輿石両君から、故|大町桂月《おおまちけいげつ》氏の、南アルプス登山旅行に同行した話を聞く。桂月氏の風采が、活《い》けるが如く浮んで来る。南アルプス紀行が一枚も書かれないで、逝かれたため、桂月氏の簡潔なる名文を、永久に見ることが出来ないのは、甲斐の不幸ばかりでなく、山岳文学のためにも寂寥を感じる。甲府へ戻って、大宮吉田を振りだしに、富士山を「上り」とした道中双六の「さい」は、おのずと収められる。
底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年7月16日第1刷発行
1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」大修館書店
1979(昭和54)年9月〜1987(昭和62)年9月
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○シャトル市:「シヤトル」の誤記か。
○おひずる:「おいずる」の誤記か。
※「水引」「水引き」の混在は底本通りにしました。
入力:大野晋
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月14日作成
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