きで食事の出来る贅沢を、山中の気分にそぐわぬと思いながらも、その便利を享楽した。
 始めに大宮口を選んだのには、理由があった。大宮口は、富士登山諸道の中で、海岸に近いだけに最も低い。吉田口は大月駅から緩やかな上りで、金鳥居のところが海抜約八百メートル。御殿場町も高原の端にあって、四百五十メートルの高さになっている。須山は更に登って五百八十メートル。しかるに大宮口は、品川湾から東京の上町へでも、散歩するくらいの坂上りで、海抜僅かに百二十五メートルに過ぎない。試みに富士山の断面図を一見すると、頂上|久須志《くすし》神社から、吉田へ引き落す北口の線は、最も急にして短く、同じ頂上の銀明水《ぎんめいすい》から、胸突《むなつき》八丁の嶮《けん》を辷《すべ》って、御殿場町へと垂るみながら斜行する東口の線は、いくらか長く、頂上奥社から海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍《むしょうがい》の空をなだれ落ちる線のその悠揚さ、そのスケールの大きさ、その廷《の》んびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、およそ本邦において肉眼をもって見られ得べき
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