すると考えられる。帰朝以来の第一登山に、いずれの山谷を差しおいても、富士山へ順礼する心持になれたのも、「私たちの山」への親しみの伝統があったからである。

    二 裾野の水車

 本年の富士登山二回の中、第一回は大宮口から頂上をかけて、途中で泊らず、須走《すばしり》口に下山、第二回は吉田口から五合目まで馬で行き、そこの室《むろ》に一泊、御中道を北から南へと逆廻《ぎゃくまわ》りして、御殿場に下りた。大宮口の時は、友人画家茨木猪之吉君と、長男隼太郎を伴った。茨木君は途々《みちみち》腰に挟んだ矢立《やたて》から毛筆を取り出して、スケッチ画帖に水墨の写生をされた。隼太郎は、近く南アルプスに登る計画があるので、足慣らしに連れたのであった。吉田口の時は、私一人であった。馬上|悠々《ゆうゆう》、大裾野を横切ったのは、前の大宮口が徒歩(但し長坂までは自動車を借りた)であったから、変化を欲するために外ならなかった。馬上を住家とした古人の旅を思いながらも、樹下石上に眠らずに、木口新しく、畳障子《たたみしょうじ》の備わった室《むろ》とはいえない屋根の下に、楽々と足を延ばし、椎の葉に盛った飯でなく、御膳つ
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