すると考えられる。帰朝以来の第一登山に、いずれの山谷を差しおいても、富士山へ順礼する心持になれたのも、「私たちの山」への親しみの伝統があったからである。

    二 裾野の水車

 本年の富士登山二回の中、第一回は大宮口から頂上をかけて、途中で泊らず、須走《すばしり》口に下山、第二回は吉田口から五合目まで馬で行き、そこの室《むろ》に一泊、御中道を北から南へと逆廻《ぎゃくまわ》りして、御殿場に下りた。大宮口の時は、友人画家茨木猪之吉君と、長男隼太郎を伴った。茨木君は途々《みちみち》腰に挟んだ矢立《やたて》から毛筆を取り出して、スケッチ画帖に水墨の写生をされた。隼太郎は、近く南アルプスに登る計画があるので、足慣らしに連れたのであった。吉田口の時は、私一人であった。馬上|悠々《ゆうゆう》、大裾野を横切ったのは、前の大宮口が徒歩(但し長坂までは自動車を借りた)であったから、変化を欲するために外ならなかった。馬上を住家とした古人の旅を思いながらも、樹下石上に眠らずに、木口新しく、畳障子《たたみしょうじ》の備わった室《むろ》とはいえない屋根の下に、楽々と足を延ばし、椎の葉に盛った飯でなく、御膳つきで食事の出来る贅沢を、山中の気分にそぐわぬと思いながらも、その便利を享楽した。
 始めに大宮口を選んだのには、理由があった。大宮口は、富士登山諸道の中で、海岸に近いだけに最も低い。吉田口は大月駅から緩やかな上りで、金鳥居のところが海抜約八百メートル。御殿場町も高原の端にあって、四百五十メートルの高さになっている。須山は更に登って五百八十メートル。しかるに大宮口は、品川湾から東京の上町へでも、散歩するくらいの坂上りで、海抜僅かに百二十五メートルに過ぎない。試みに富士山の断面図を一見すると、頂上|久須志《くすし》神社から、吉田へ引き落す北口の線は、最も急にして短く、同じ頂上の銀明水《ぎんめいすい》から、胸突《むなつき》八丁の嶮《けん》を辷《すべ》って、御殿場町へと垂るみながら斜行する東口の線は、いくらか長く、頂上奥社から海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍《むしょうがい》の空をなだれ落ちる線のその悠揚さ、そのスケールの大きさ、その廷《の》んびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、およそ本邦において肉眼をもって見られ得べき
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