が、その上を回転して、両崖の森林を振りかえりながら、何か、禍《わざわい》の身に迫るのを、一刻も早く遁《に》げたいというように、後から後から、押し合って、飛んで行く。潭石の下には、大《おおき》さ針の如くなる魚が、全身、透き通るように、青く染って、ぴったりと、水底に沈んでいる。水の面には、生の動揺といった象《かたち》が見えている中に、これはまた青嵐も吹かば吹け、碧瑠璃《あおるり》のさざれ石の間に介《はさ》まって、黙《だ》んまりとした|死の静粛《デッド・カアムネス》! それでいて、眠っているのではない、どこか冴え切って、鋭く物に迫るところがある。鰭《ひれ》一つ動かすときは、おそらく、水紋が一つ描かれ、水楊《みずやなぎ》の葉が一枚散り、谷の中には大入道のような雲がぬうっと立ち昇って、私たちを包んで、白くしてしまうときであろう。私は、この深谷の幾千本針の針葉樹よりも、はた幾|万斛《ばんこく》の水よりも、一寸の魚が、谷の感情を支配していないとは言えなかった。
 潭《ふち》が深くて、渉《わた》れないから、崖に攣《よ》じ上る。矢車草、車百合、ドウダンなどが、栂《つが》や白樺の、疎《まば》らな木立の下に
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