花は、潔いけれど、血の気の失せた老嬢のように、どこか冷たかった、今一と目、この花を見ると、もう堪まらなくなって、凍えても私は、この高根薔薇を胸に抱いて死にたいと思った、高山植物というものを、殆んど摘み取ったことのない私も、このときばかりは、――白峰赤石《しらねあかいし》、峰々に住ませたまう荒神たちも許させたまえ――一輪を衣裏《ポッケット》へと秘めた、そのときは霧中の彷徨《ほうこう》で、考える余裕もなかったことだが、文芸復興期《ルネッサンス》以後、伊太利《イタリー》唯一の天才と呼ばれた山岳画家ジョヴァンニ・セガンチーニが、夏の初めアルプス山の雪中で、莟《つぼ》める薔薇を発見して「|薔薇の葉《エ・ローズ・リーフ》」という名画を描いた、それは白い床の雪の中から髪の毛の柔かい、薔薇色の頬の愛らしい乙女が、顔を出して、涼しい眼をバッチリと瞬いている、背景《バック》は未だ寂寥な眠から醒《さ》めない、暗《やみ》の空に、復活の十字架が、遠くに小さく見える、象徴の匂いの饒《ゆた》かな作品である、あの高根薔薇は、私には永久に忘られない花の一ツである。
 やっとこの山での最高点――と思う、霧で遠くの先は解ら
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