これじゃあ、森林などというほどではなかった、霧の嘘つき! と嘲った。
 温泉はやはり、新湯に泊まった、去年(四十年)秋、笹子峠のトンネルを崩壊し、石和《いさわ》の町を白沙の巷《ちまた》に化して、多くの人死を生じさせた洪水は、この山奥に入ると、いかばかりひどく荒れたかということが解る。温泉附近の路が酷《ひど》くくずれている、宿の前で嗽《うが》いをした筧《かけひ》の水などは、埋没してしまっている。
 例の晃平を主として、四人の猟師を雇って出発した。
 早川から黒河内《くろこうち》、榛《はん》の河原、それから白剥《しらはぎ》山と、前年の路を辿《たど》ったときに、洪水からの荒廃は一層甚だしかった、まるで変っている、川筋はもとより、山腹の道などは、捩《ね》じり切って、棄てたように谷に落ちている、大村晃平、同富基、中村宗義などいう、土地で名うての猟師を連れたのだが、どのくらい路を損したり、無益に上下したかは解らぬ。
 白剥山の入口などは、解らなくて、森の中を一行が、離れ離れに迷うばかり、滝上《たきのぼ》りまでもやった、一時は絶望に近かった、しかし山腹に辿りついてからは、去年の路が、微《かす》かに見分けが出来た、頂は存外変りがなかった。
 そうして一行は東俣谷の、オリットの小舎《こや》に着いた、私が恐い、怖ろしい念《おも》いをしながらも、もう一遍後髪を引かれて見たいとおもった小舎の前の深潭《しんたん》は、浅瀬に変って、水の色も、いやに白っちゃけてしまった。
 ここを出立点として、改めて稿を次ぐ。

    川楊(大井川の上流)

 前夜は、東俣の谷へ下りて、去年と同じくオリットの小舎に野宿をした。
 今朝は、四時半に眼がさめる。禽《とり》の、朗かに囀《さえ》ずる声は、峰から峰へと火がつくようである。寝泊りした小舎の頭の、白花の咲く、ノリウツギの間からも起る。サルオガセの垂れる針葉樹の間からも、同じように起る。この声の行くところ、水と、石と、樹と、調子を合せて、谷間の客を揺り起す。間《あい》の岳《たけ》(赤石山脈)の支峰だと晃平のいう蝙蝠《こうもり》岳は、西の空に聳《そび》えて、朝起きの頭へ、ずしりと重石を圧えつける。
 小舎の前の渓水に嗽《くちすす》ぐ。水は、南へと流れる。当面の小山を隔てて、向《むかい》は、西俣の谷になる。私たちの、これから溯《さかのぼ》ろうという、東俣の谷と、
前へ 次へ
全35ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング