、樹の梢は、すくすくと延び上つて、水鏡をしてゐる、川はひつそりと音もなく、蒸々《じよう/\》と立ちのぼる峡谷の朝霧の底を、櫓の音が、ギイギイと静かにひゞく、森の下蔭を通りぬけ、浅瀬の上を乗越して、信州から遠州境へ近くなつて来た。
 ふり仰げば、北方の緑に包まれた山々は、遠山川《とほやまがは》が深く侵蝕してゐるために、谷の通路に当るところだけが切り靡けたやうに低く開けて、北東に日本南アルプスの大主系《だいしゆけい》赤石《あかいし》山脈《さんみやく》の、そゝり立つ鋼鉄の大壁、夏を下界に封じて、天上の高寒は、はや冬のやうに、透明凛烈の青みどろに澄みわたり、乾きわたつてゐる虚無の中に、鋭角線を引き飛ばして、強い鋼筆で、透明な硝子板《ガラスいた》に傷をつけたやうに、劃然と大波を打つてゐる。
 左岸に鶯巣《うぐす》の山村を眺めながら、いつしかこの地方特有の領家片岩の露出区域に、峡流《カニヨン》を南へ南へと導いて、水神《すゐじん》の大滝にかゝる、渦と渦とが、ぐるぐるめぐりに噛み合ひ、大気を含んだ透明の泡が花弁のやうに、むらむらと水底から湧きあがり、白く尖つた波が、ざわざわと鱗光りに光る中を、櫂を休め
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