ある。浴衣を着た、白粉剥げのした女が、素足に草履を穿き、川縁に立つて、名古屋訛りの言葉で、船頭に言伝てを頼みながら、手紙を渡してゐる、船はその茶屋の側から出る、これが港であつたら、黒い船、赤い船が、檣《ほばしら》や烟突を、林のやうに立たせ、重々しく鎖を引き擦り、錨を卸して、青い海の上と、焼けるやうな赤い雲の下に、装飾的に行列してゐるところであるが、この奇体な、みすぼらしい川船は、渚に繋がれてゐるのはいかにも迷惑さうに、航海者が慄気《おぞげ》を震ふ風なんぞは、一向に平気だといふやうな顔をして、一寸した水のうねりにも、神経をピリリと動かせ、今にも水の底を潜りかねない気配をして、待ちくたびれてゐるげに見える。船体を白く塗つてゐないから、白鳥とは見えないが、又鰭を振る魚とも見えない、船の長さ七間半、幅四尺、深さ三尺ぐらゐで、両方の舷側には、小さな穴を明け、棕櫚繩で、長さ九尺ぐらゐもあらうかといふ樫製の櫂《かい》を、左右に二挺結びつけてある、櫂の折れ目に鉄環でツギをあてたのもある。
船の中には、竹棹が何本となく抛り出されてある、その棹の先には、鉄の環が二つ嵌り、尖端は木槍の身のやうに、細く削つてあるが、岩石を烈しく突き立てると見えて、サヽラか草楊枝のやうに裂けてゐる、荷物を見廻すと、菓子、酒、塩、饂飩、殻類[#「殻類」はママ]、提灯などが積まれ、「濡れ物、御用心」など紙札を張つたのもある、荷物がなければ、一船に定員二十五人を詰め込むのだそうであるが、今は人の方が附けたりなので、四五人の乗客しかなかつた。
薄ツぺらの船板は、へなへなしなつて、コルクみたいに柔らかく、水をいなすから、板と言つても、帆布《カンヴアス》一枚で、漂流するやうな気もされる、一人の船頭は艫に立つて、櫓を操り、一人は舳先に立つて、水先案内の役を務める、外に船頭が二人で、両舷の櫂を、ボートのやうに水にピタピタ入れると、瀬の音がさらさらと鳴り始める、岸から水中へ辷り込んだとおもふと、物に魂でも入つたやうに、ツイと放れた。
船底がゴブゴブいふ、雨風に窶《やつ》れた船の、心臓が喘ぎ喘ぎ波を打ち出した、もう水に流れ始めると、先刻感じたやうに、柔らかい帆布でもなく、水を泳ぐ魚でもなく、角度角度が前後両翼の櫂で決まつて、白い石の土堤、桑畑、荒壁の土蔵、屋根の上のゴロ石などが、引いて取られるやうに、すつと後へ退り、川上の伊那山脈は、紫陽花色《あぢさゐいろ》の、もくもくした雲の下へ捻ぢこまれて、強烈な印度青《インチゴー》の厚ぼつたい裾も、前なる草山のうしろへ、没してしまふ。
「筏の行つたあとを通るだなあ」「白い瀬の東下りるだよ」と、舳先からは艫の方へ声をかける、中の船頭は、鉄の環の入つた竹棹を、水にグイと入れる、眼に見えない強い力で、両手を引ツ張られ、グルグル引き廻されて、惰力のついたところで、抛り出されたやうに、船はいきほひづいて、滅入るやうに前に俯《かゞ》んで、又ひとうねりの大波を乗つ越すと、瀬の水は白い歯を剥き出して、船底をがりがり噛み始める、水球が飛び散つて、舷側は平手で、ぴちやぴちや叩かれる音がする、腰の廻りへ、袴のやうに蓆《ござ》を着て、鮎を釣つてゐる人が、水沫《しぶき》の中で掻き消されて、又しよツぱい顔が浮ぶ。
「親殺し」といふ崖の下で、水は油を流したやうに、澄んで、今までのさわぎは忘れたやうに、けろりととぼけてゐる。
「磧《かはら》へついて廻したぞ」と、艫の方から声がかゝつたが、夕立のやうに、水がざわついて、小さな水球が、霧雨《きりさめ》となつて飛んで来たので、もう名高い天竜峡に入ツて来たと知つた、竜角峯とか、何々石とかいふ岩石が、水ですり磨され、覇王樹《シヤボテン》のやうに突ツ張つて簇《むら》がつてゐる、どの石もみんな深成岩《しんせいがん》と言はれてゐる花崗岩《くわかうがん》で、地殻の最下層の、岩骨が尖り出て、地下の神経を剥き出しにしてゐるのである、岸と岸との間は、おそらく十五|米突《メートル》ぐらゐな距離しかあるまいが、この並行線は、いつまでも一致しないで、喰ひ合はうとしては離れ、離れては又曲りくねつて、その間を玉虫のような、翡翠《ひすい》のやうな、青葡萄のやうな水が、すうい、すういと流れ、表をかへすと、雪のやうな白い裏地が見える、崖の骨に喰ひついて、萱草《かんぞう》の花が火を燈したやうに、黄色く咲いてゐる、船はもうハムモツクのやうに、空と水の境を揺られる。
崖の出口の、寺が淵へ来ると、騒ぎくたびれた水は、しんとして、静まりかへる、それもしばしで、オハチへ来たころは、渦まく水が強い呼吸で、吹き分けられたやうに、落ち込みが出来て、浪の中に二三尺の穴が明く、船はその中へ吸ひ込まれさうになつて、大岩の曲り角へと突つかけて来ると、竹棹が崖へ飛びついて、弓のやうにしなふ
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