ゝらぐ水の啜り泣きと、荒涼として河原|蓬《よもぎ》の風にそよぎ、蘆花の衰残する川景色は、さなきだに寂滅為楽の虚無思想を、背景としてゐる当時の人たちに、いかにやるせない心の悶えを起させたであらう。されば大河を前に、うつろひ易い人生の姿を見てあれば、「水無月《みなづき》や人の淵瀬の大井川」(蓼太《れうた》)といつたやうな感じに打たれないものはなかつたであらう。
かくの如きは、古くから日本の文学を裏付けてゐる無常観で、あまりに常套な、又あまりに感傷的な句ではあるが、しかも時の姿、流れの姿は、人の身の上ばかりでなく、川それ自身の栄華をすら、鼠色に暮れゆく川上の、遠山《とほやま》に沈む斜陽のうす黄色の中に、うすら寒い谷の影を、描き出されるやうになつた。
未だ木曾街道に、汽車の出来なかつた頃は、河舟の数二千五百艘、搭載量二万七千四百石と唄はれた、下り船上り船の往き交ふ繁昌も、今では火の消えたやうに寂びれ切つて、偶《たまた》まに川下りをしようとして、河畔に立つ旅人があつても、船が出ないために、空しく失望して引き返さねばならなかつた、私も二度ばかりさうした憂き目を見て、心ならずも傍路へ外らされた。
しかもこの儘に、埋没させるには、あまりに華やかに、あまりに麗はしく、若々しい川の姿である、Rev. LO, Roke といふ[#「ふ」は底本では脱落]日本へ来たことのある英国人は、五六年前、倫敦の王立地学協会で、講演して、「およそ全世界に見られ得るほどの川の純美は、凡て天竜川にあつまつてゐる。ライン河を下り、ダニューブ河を下つたが、到底天竜川に及ばない」とたゝへてゐる、私はライン河もダニューブ河も知らないが、天竜川の延長五十四里、その中の三十里は日本アルプスの屋棟《やね》ともいふべき信州を流れて、川幅が最も狭く、傾斜が最も急で、岩石の中でも、最も堅硬な花崗岩や、結晶片岩の中を流れてゐるといふ浸蝕谷であるから、この川の特色としては、かの欧洲アルプスから、地層の走向に沿つて流れ出るローンや、ラインのやうな、水平らかにして、幅濶く、流れの遅々とした谷に比べて、もつとフレッシュで、もつと純粋で、もつと深谷的《ゴルジ・ライク》なものであらうとおもはれる。
しかのみならず、私は憫れなほど、水に欠乏してゐる都市に住んでゐる、水も何米突若干銭と、秤量《しやうりやう》にかけるやうにして、高い租税を払はなければ飲めないばかりか、川水の姿を見ようとすれば、鉄橋の下の、鉄漿溝《おはぐろどぶ》のやうに、どす黒く濁つた水を、夕暮の空に、両岸の燈火の幻影で、美しく粉飾して、眺めくらして、はかない欲望を充たすのである、さもなければ、偶《たま》に古城の御濠の水を、石垣の曲りくねつた黒松の行列や、埃だらけで、灰色に化けてゐる名ばかりの、青柳の樹影に、透かし見て、水藻や、バクテリアで、毒々しく淀んだ、沈滞腐敗した水のおもての青みどろの色に、淡い哀愁の情を寄せてゐなければならない。私たちの祖先は、森蔭に眠り、水辺に浴みしたであらう、水を追うて都市に出て来たであらう、もし私たちに水の都を慕ふ情緒を、許されるならば、日本アルプスの雪の山、氷の山で、閉された、厚ぼつたい、森厳にして冷酷な周囲の中から、きはめて繊細な、しかしながら尖鋭な、鎌の刃を閃かし、この鉄壁を突き通し、縫ひ通し、岩石の心臓から、谷間の狭い喉頭を通過して、深い深い、大きい大きい、太平洋へ出る銀色の川の姿に、見惚れないで何としよう、見惚れるばかりでなく、たとひ一日二日なりとも、絶えず動揺し、奔放する水の線の上に、住まつて見たい、一髪の間を隔てゝ、耳許に水音を聞くだけの、生活をして見なければならぬ。
私は飯田から二里ばかりある、時又《ときまた》といふ船の出るところまで、車を走らせた。
二
渚には空船が底を空に向けて、乾されてゐる、川岸には荷を積みかけた船が、纜《もや》つてゐる、私はこの荷船に乗るのである、どうせ積荷を主な目的とする船であるから、無理やりに、荷物の中へ割り込んで、坐るぐらゐの窮屈は、忍ばずばなるまい、何となれば時又から、一日で、天竜の下流、鹿島《かしま》に達するまでの「通し船」を、傭ふには、非常に高い賃銀を払はせられるので、私のやうな日本アルプスの貧しい巡礼に、貴族的の豪奢を、要求することに当るからである、私は時又から満島《みつしま》まで、八里の間を、この荷船に便乗し、満島から西の渡《と》まで、九里の間は、村落蕭条として、荷船さへ通はないだけ、それだけ、天竜川が怒吼激越の高調をして、深谷の怖ろしい姿が見られるのであるから、その距離だけを、別に船を仕立て、西の渡《と》から鹿島までは、毎日客船が出るさうであるから、それに乗り換へることにしたのである。
時又は川添ひの間の宿で、一寸した料理屋が川端に
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