、一人の船頭は櫂で舷をコトコト叩いて、上り船に信号をする、ざんざの水音と、コトコト叩く櫂の音が、入り乱れるが、その櫂の音は、力のない音響の一滴に過ぎなかつた、私はこの櫂で叩く音を、簡単な上り船への信号とのみ見たくない、チエンバレイン氏が「日本のアイノ」に描かれたやうに、水中の窪魔《あま》を、追ひ退けるため、水を追うて川を下りたといふおまじなひが、今でも無意識に伝はつてゐるのでは、あるまいかと考へた。
 コアゼの大滝へ来たときは、どんどろの水が、沸り落ちて、船は麻痺した身体が、動かない手足を、じたばたさせながら、何とも仕方ないやうに、立ちすくんでしまふ、舳先の船頭が、手練で舞はす櫂は、蜻蛉《とんぼ》の薄羽のやうに、鮮やかにキラリと光つて水を切つても、船は水底の、世にも怖ろしい執念の力で、引き留められるやうに、行き悩む、中なる船頭が、木彫の仁王のやうな、力瘤の入つた筋肉を隆くして、丁字櫂を握つたまゝ、踏ん反り返り、合掌に引いてゐるのが、千曳の大岩でも、水底から引き上げるやうに力瘤が入る、水と船との死物狂ひの闘ひを、小面の憎いほど知らん顔して、煙管を横銜へに、竹の網を張りながら、こつちを瞰下してゐる男がゐる。
 竹棹で大きな白い岩を突かうとした船頭は、帽子を水の中に落して、あつと言ふ間もなく、塵芥のやうに、黒い点となつて、引ツたくられてしまつた。
 この辺の川は、むかしは大岩だらけで、いく船を打ち割つたものださうだが、今でも俵石などいふ巨大な岩塊が、水の上へ背を露はしてゐる、朝に一本の歯を抜かれ、夕に一本の角を折られるやうに、岩石は切り開かれて、川路は作られても、洪水や風雨が、後から後から、大小の石を転ばして来ては、一水もやらじとやうに、邪魔をする。
 大久保の長|瀞《とろ》へ来たときは、水は湖沼のやうに、穏やかな、円かな夢でも見るか、ひつそりして、やんわりと大様な亀甲紋が、プリズムの断面を見るやうに、青硝子色をしてのんびりとひろがつてゐる、乗客たちは、安心したやうに、濡れた袂を絞るやら、マツチへ火をつけるやらしてゐる、銜へ煙管に膝を抱いて、ポカンと青い空を見てゐるのもある、竹棹の先の鳶口を、岩に引つかけ、船を右舷に傾斜させて置いて、船底の片隅を、溝をなして流れる閼伽水《あかみづ》を、短い汲桶で、酌み出しては、川へ抛りこむ。
 大久保といふ村落のあるところを過ぎて、峡間がひらけたかと思ふと、あまり高くはないが、日本アルプス系の一峯が、遠い空に聳えてゐる、おもひ出せば、或時は夕暮の夏の、赫々たる入日に、鋼線《はりがね》が焼き切れるやうな、輝やきと光沢を帯びて、燃え栄つてゐたのも、是等の山々であつた、その山の白い頭を、いや白くして、白金《プラチナ》の輝やきを帯びてゐた氷雪が、日の光と、生命の歓楽に、よどみを作つて、房々とした黒髪の長い処女の森を通り抜け、何千年となく無辜《むこ》の生霊を葬つてゐる、陰惨たる洞窟から、滲み出て、異教徒のやうに、反抗の叫びを高くして、放浪児のやうに、刹那々々の短い歓楽を謳歌して、数千万の水球の群れが、山と山とに囲まれてゐる狭い喉を、我|克《が》ちに、先を争つて通過してゆくのである、一分一秒は、白く泡立つ波と、せゝらぐ水の音に、記録されてゐる、凡ての雰囲気が、みんな水に化けてしまふかとばかりに、一団の雲とも、水蒸気ともつかぬ精力《エネルギー》になつて、吹つ飛んでゆく。
 谷川の水であるから、海にあるやうな深い水の魔魅《まみ》はないかも知れない、けれどもまた海の水のやうに、半死半生の病人が、痩せよろぼひて、渚をのたうち廻つたり、入江に注ぎ入る水に、追ひ退けられたりする甲斐性なしとは違つて、冷たい空の下でも、すゞし絹のやうに柔らかに、青色の火筒《ほや》のやうに透明に、髪の毛までも透き通るまでに晶明に、地球上最も堅固な岩石の、花岡岩[#「花岡岩」はママ]をすら、齲歯《むしば》のやうにボロボロに欠きくづして、青色の光線を峡谷に放射し、反射して、心のまゝ、思のまゝに、進行する見事なる峡流《カニヨン》の姿は、豪奢な羽を精一杯にひろげて、烈々たる日光の下で、王者の舞ひを舞ふ孔雀の威よりも、大きく見える、私は水の青色と、絶え間のない流動の姿とで、沈欝な気分を圧伏され、神経を静かに慰安されたやうになつて、一枚のハンケチを顔の上にかぶせ、仰向きになつて、暫らく青空を見つめてゐた、それも眩ゆくなつたので、崖へ視線を落すと、崖には山百合の花が、白く点々として、芳烈な香気が川風に送られて、鼻腔へ入る、秋は紅葉が赤くなると、どのくらゐ美しいかと、土地の人らしいのが、自慢話をしてゐるのを、聞くともなく聞いてゐるうちに、自分ながら眼晴《ひとみ》が、あやしく散大するやうで、凡ての物が面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヴエール》を透《す
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