か》して、遠く小くなり、感覧があるのか、ないのか解らぬほど鈍くなり、恍惚として、夢ともなくうつゝともなく、寝てしまつたが、ちらりと光つた青色の水の姿で、目が冴えて、起き上つた。
川はいま段落をして、船が引きずり卸されるやうに、下向きになつたかとおもふと、船頭たちは櫂の手を休めて、無抵抗主義に乗り越える、その時は爪先が立つて、前へ俯《の》めるやうな気がして、人々は思はず、荷の上の油紙を引き寄せ、腰から下へ、前垂代りにかけながら、水面の恐ろしい傾斜を、まざまざと正面に見せつけられた、「唐傘谷といつて、難所でさあ」と船頭は平気である。
つゞいて茶々淵《ちや/\ぶち》の大難所が来る、水の多いところを避けて、船は右へ左へと、一個の肉体を、自由自在に運動の継続で、調節させるやうにして、Zの線を描いたり、蛇の舌をぺろぺろさせるやうに、突進して、鋭く迅く速力を出したりして、水の音楽と、姿態と、拍子とに、合奏させてゐたが、八間岩《はちけんいは》といふ大屏風を引き廻して、峡流《カニヨン》も横ざまに線を引いたやうに、一頓して落下する、もう峡流といふより、飛瀑と言つた方がいゝ、船頭はこゝで一人残らず、客を陸《をか》に上げてしまつた。ビシヨ濡れになつても、かまはぬと最後まで、残つてゐた私をも、追つ立てるやうにして、陸上の人としてしまつた。
空に引き渡した鋼線《はりがね》に縋つて通ふ渡し舟を、見ながら、私たちは、河原の石コロ路を、二三町も歩いた、傘も下駄も、船の中へ置き去りにして、尻ッ端折になつて、炎天の焼石の上を、腫れ物に障るやうに足袋裸足で歩いてゐる乗客もある、河原には埃を浴びて白くなつた萱草《かんぞう》の花の蔭から、蜥蜴《とかげ》の爬ひ出す影が、暑くるしく石に映る、今夜の泊りの「満島《みつしま》まではまだ四里半もありやす」と、道伴れになつた[#「なつた」は底本では「なつは」]同船の客から聞いて、傘をさしかけ、磧《かはら》にしやがんで、下つて来る船を待つ、河原に焚火をした痕と見えて、焦げた薪や、灰が散らばつてゐる、溺死人でも、あつたんぢやないか知らんと思ふ。
暫らく停まつて呼吸を入れてゐた船は、こつちを目がけて、走つて来る、難所中の難所といふ、やぐらの瀑へかゝつて来たときは、波から三尺ばかり船体が乗り出したと思ふと、水煙が噴水の柱のやうに立つて、船頭の黒い立像が、水沫《しぶき》の中から二体浮び出た、火影に映る消防夫の姿のやうに。
乗客一同は又迎へられて、船中の人となつた、榎の渡しを横に見て、川田《かはだ》温田《ぬくだ》の二村のあるところで、乗客は大体どつちかの村へ下りた、饂飩五函、塩一俵が岸に揚がつた、村近くなつて、峡流《カニヨン》も静かになり、米を舂く水車船も、どうやら呑気らしい、御供《ほや》といふ荒村にしばらく船をとゞめて、胡桃の大木の陰になつてゐる川添ひの、茶屋で、私たちは昼飯を食べた、下条村の遠州《ゑんしう》街道《かいだう》が、埃で白い路を一筋、村の中を通つてゐる、ここで、又残りの荷があらかた卸された。
今まで峡流《カニヨン》には珍らしいほど、屈曲の少なかつた天竜川は、こゝで急な瀬と、深い淵を挟んで、大屈曲をしてゐる、崖は漆喰で固めたように、石を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]みつけ、それに根を下した紅葉の一枝が、紅を潮《さ》してゐる、日は少し西へ廻つたと見えて、崖の影、峯巒《ほうらん》の影を、深潭に涵《ひた》してゐる、和知川《わちがは》が西の方からてら/\と河原を蜒《うね》つて、天竜川へ落ち合ふ。
両岸が円い石を束ねて、水はその中に狭められて流れてゐる、白壁の土蔵が、柳の樹の間から、ちらほら見える、船からは、酒樽を渚のほとりへ揚げ、船頭が口へ手を当てゝ、オーイと呼ぶ、岸の上から人が覗いて、何か言つてゐる、船頭は今朝の女から、言伝《ことづか》つた手紙を、樽の上へそつと置き、小石を重石代りに乗つけて、又船を川中へ押しやろうとすると、河原について、瀬が浅いので、がりがり言ふばかりで、動かない、二条の細引を舳先に括りつけ、二人して水の中へ入りながら、深いところまで船をおびき出して、動き調子がついたときに、手繰りながら船に躍り込む。
川はS《エス》字状に屈曲して、浅瀬と深淵と落ち合つて「捨粟の大曲り」を行く、左岸の峯は雲つくばかりに立ち上り、日の光も森にかくれて、燻んだやうに暗く、森の中には、枯木が巨大な動物の骨のやうに、散乱してゐる、崖から庇のやうに突き出た大石の上には、大木が根ぐるみ乗りかけてゐる、冷たい風が、川水を吹いて、裾から腋の下、背から襟へと、駈けめぐつて、そこら中をくすぐつて、振り返る姿を川波に残して、通りぬける。石から石の上を飛びめぐる鶺鴒《せきれい》と筋交ひに、舟は両崖の迫つた
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