天竜川
小島烏水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)偃松《はひまつ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長者|熊野《ゆや》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヴエール》を

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こつ/\
−−

   一

 山又山の上を、何日も偃松《はひまつ》の中に寝て、カアキイ色の登山服には、松葉汁をなすり込んだ青い斑染《まだらぞめ》が、消えずに残つてゐる、山を下りてから、飯田の町まで寂しい宿駅を、車の上で揺られて来たが、どこを見ても山が重なり合ひ、顔を出し、肩を寄せて、通せん坊をしてゐる、これから南の国まで歩くとすれば、高い峠、低い峠が、鋭角線を何本も併行させたり、乱れ打つたりして、疲れた足の邪魔をする。山越しに木曾路へ出て、汽車に乗るとすれば、トンネル又トンネルがあつて、この温気に、土竜のやうに、暗の窖《あな》を這ひ、石炭の粉の雨を浴びなければならない。
 けれども、山の町から一直線に、傍目も触らず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄《そてつ》が丈高く生えてゐる海岸まで、突き抜ける天竜川《てんりゆうがは》といふ道路があることを私は知つてゐる、しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知つてゐる、この道路はどんなことがあつても、酸化したり腐蝕したりすることは先づ無い、今まで頑なな、鉄糞のやうに、兀々《こつ/\》した石の上で、寝起してゐた身が、濃青《こさを》の水、情緒の輝やきに充ちてゐる自由な川波に乗つて、何千尺の高さから、大洋の水平線まで、一息に下り切るといふことが、「船さして雲のみを行く心地しぬ、名も恐ろしき天《あめ》の中川」といふ、この川を詠んだ古歌の心を、味ふのに十分であらう、金剛杖の代りに櫂、馬車や汽車の代りに、亜米加利の印度人が、操つたやうな、原始的な、軽い、薄ッぺらの板舟で、五十里の峡谷、それもおそらく日本に類のない深谷を下られるといふ道路は、他のいかなるそれよりも、美しい幻影に富んでゐるに違ひない。
 今でこそ衰滅の俤しか残さないが、覊旅《きりよ》の人たちに、古典的の壁
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