合せな男だなあ」と、いまだに思っている、北斎や広重の版画を見ずにしまった彼は、富士山の線の美しさを、夢想にもしなかったらしい、東海道の吉原から、岩淵あたりで仰ぎ見る富士山の大斜線は、向って左の肩、海抜三七八八米突から、海岸の水平線近く、虚空を縫って引き落している、秋から冬にかけた乾空には、硬く強く鋼線のように、からからと鳴るかと思われ、春から夏にかけて、水蒸気の多い時分には、柔々《やわやわ》と消え入るように、または凧《たこ》の糸のように、のんびりしている。地平線と水平線とを別として、我が日本国において見らるべき、有《あ》らゆる斜線と曲線の中で、これこそ最大最高の線であろうと、いつも東海道を通行するたびに、汽車の窓から仰ぎ見て、そう思わないことはない。
私はいつか浅間山の追分ヶ原に遊んだことがあった、そこに若い学生が、浅間山を写生していた、すると今まで静かに茶褐色の天鵞絨《ビロード》に包まれて、寝ていたかと思われる浅間山が、出し抜けに起き出してでも来るように、ドンドンと物を抛《な》げ出す響きにつれて、紫陽花《あじさい》の大弁を、累《かさ》ねて打っ違えたような、むくむくと鱗形をした硫煙が
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