目のように引き擦っている、足は何の感覚もなく、小石原や、青草の敷きものの上を辷っている、次第にはびこる霧の中から、常念岳の頭だけが出ているのを見ながら、三つ四つ小隆起を超える、東側には絶えず雪田が、谷へ向いて白い布を晒《さら》している。
槍ヶ岳はいよいよ近く、小槍ヶ岳を先手として、間の「槍の大喰岳」を挟んでいる、小槍ヶ岳の岩石は、鼠色にぼけて、ツガザクラの寸青を点じている、遠くで見たときと違って、輪廓が雄大に刻まれている、そうして中腹には雪田が、涎懸《よだれか》けのように石を喰い欠いて、堆く盛り上っている、その雪田の下の方を、半分以上廻り途して、頂上へと達した。
そこからまた下りになって、尾根へつづく、尾根の突角は屋根の瓦のように、平板に剥《は》げた岩石が、散乱している、嘉代吉は偃松の下で、破れ卵子《たまご》を見つけ、足の指先で雷鳥の卵子だと教えてくれた、この尾根の突角で、深い谷を瞰下しながら、腹這いになり、偃松の枝にのしかかって、頬杖をついて休んだ、空は冴えかえって、額をジリジリ焼くような、紫をふくんだ菫色の光線が、雨のように一杯に満ちている、そうして細い針金のように、ふるえながら、頬にピリつく、嘉代吉や人夫も、偃松の間の石饅頭に、腰を卸して、烟菅《キセル》を取り出し、スパスパやりはじめた、その煙が蒼くうすれて空に燻《くゆ》ってゆくのを、私はうっとりと眺めていたが、耳のわきで、虻《あぶ》のブンブン呻《うな》るのを聞きながら、いい心持に眠くなってきた、凡《す》べて生けるもの、動けるものの、肉から発する音響という音響を、一切断絶して、静の極となった空気の中で、このまま化石してしまいそうだ。「父っさんだ」「オー父っさんだ、早いもんだな」と人夫たちが、騒ぎ出したので、垂るんだ眼の皮を無理やりに張って、谷底を見ると、万年雪の上に、ポツリと黒子《ほくろ》ほどの大きさに点じているものがある、その黒子の点をさがしあてたときには、少しずつ影がずり寄るように、動いているのが解った、嘉門次が米をしょいがてら、温泉からやって来て、今夜嘉代吉と交替する手筈になっていたことが、やっと考え出された、重いまぶた[#「まぶた」に傍点]が、いくらかはっきり[#「はっきり」に傍点]して来た。
高低のある絶壁の頭を越して、峰頭の二分した槍の大喰岳を通過してしまい、やっと槍ヶ岳の根元へついた、そうして去年も登った槍ヶ岳を、しみじみと見上げたが、この何万年も不眠症でいる、原始の巨人《ジャイアント》は、鋼鉄のような固い頭を振り立てて、きょうもまた霧の垂幕を背景《バック》にして、無言のまま日本の、陸地の最も高い凸点にぬーっと立っている、全能の大部分を傾けて、建設したのではないかとまで、壮大にして不滅に近いモニュメントを、私は覚えず敬虔の念を以て礼拝せずにはいられなかった。
槍ヶ岳のすぐそば――といっても、蒲田谷へ向い気味で、やや下った石コロ路の中で、露営を張ることになった、雪はすぐうしろにあるので、煮炊《にたき》に不自由はない、一枚の大岩を屏風とも、棟梁とも頼んで、そこへ油紙の天幕《テント》を張った、夕飯の仕度にかかっているうち、嘉門次もエッサラとあがって来た、去年とは違った小犬を伴につれている、今夜の用意に、来る路の、谷で剥《む》いて置いたという白樺の皮を出して、急拵えの石竈《いしかまど》の下を、燃やし始めた。
霧がすっきりと霽《は》れて、前には笠ヶ岳の大尾根が、赭っちゃけた紅殻《べにがら》色の膚をあらわし、小笠から大笠へと兀々とした瘤《こぶ》が、その肩へ隆起している、遠くの空に、加賀の白山は、いつもの冷たい藍色に冴えて、雪の縞が、むしろ植物性の白い色をおもわせる。
白山から南に、飛騨の山脈が、雪の中に溶けている、北は鎌尾根から、山勢やや高くなって、蓮華岳の、篦《へら》で捏《こ》ねたような万年雪の蝕《むし》ばみが、鉛色に冷たく光っている、それから遥かに、雪とも水平線ともつかぬうすい線が、銀色に空を一文字に引いている、露営地にいると、わずか二、三丁ばかり背後の槍ヶ岳も、兀々と散乱した石の小隆起に遮られて、見えないので、草履を引っかけて出て見る。
いま夕日は赤く照り返しをはじめて、槍ヶ岳の山稜は、赤い煙硝を燃やしたようにボーッとなった、岳から壊《くず》れ落ちた岩石には、ちょろちょろと陽炎《かげろう》が立っている、天幕のうしろの雪は、結晶形に見るようなつや[#「つや」に傍点]もなく、白紙のように、ざらついて、気味の悪いほど乾いている、足許の黄花石楠花が、焔の切れっ端のように燃え出した、「はあれ、きれいな御光だ」と感嘆している嘉門次の顔も、赤鬼のように赤くなっている。
夕日は蓮華岳の頭から、左へ廻って、樺色の雲に胴切りにされ、上半分は櫛のようになって、赤銅色に燻ぶったかとおもうと、日本アルプスの山々は、回帰線でもあるかのように、雲の中を一筋に放射してゆく、谷より立つ白雲と、氷を削ったような銀色の雲が、もくもくと大空にふさがり合い、その鍔《つば》が朱黄色に染まって、雲が柘榴《ざくろ》のように裂け、大噴火山のように赤くなった、その前に立った日本北アルプスの峰々は、猩紅《しょうこう》色や、金粉を塗った円頂閣となり、色彩の豊麗な宝石を鏤《ちり》ばめた、三角の屋根となった。
見る見るその雲の大隆起の下には、火の川が一筋流れ、余光が天上の雲に反照して、篝火《かがりび》が燃えたようになった。
油紙の天幕には、チロチロと漣《さざなみ》の刻むような光りがする、岩石の間に、先刻捨てた尻拭き紙までが、真赤にメラメラと燃えている、この窪地一帯に散乱する岩石の切れ屑は、柔らかく圭角《けいかく》を円められて、赤い天鵝絨《ビロード》色が潮《さ》しはじめた。
今まで見たこともない、荘厳をきわめた、日本アルプスの夕日!
谷
夕焼の凶徴はあった。
夜中からは、ざんざ降りで、尾根伝いの笠ヶ岳登りを見合せて、蒲田谷へ下りるより、外にしようはなかった。
峰の上から見おろすと、傾斜面は青い草で、地の色も見えないほど、ふくらんで、掻巻《かいまき》でもかけたように温かそうである、が下り始めると、大きな石や小さな石が、草むらの底に潜《ひそ》んで爪先をこじらせたり、踵《かかと》を辷《すべ》らせたりする、足の力を入れるほど、膝がガクガクするので、支えるさえ大抵ではなかった、ゴム引の黒い雨外套と、頭巾とですっかり身を包んで眼ばかり出していたが、どうかすると、青草の間の石楠花の、雨をふくんだ白い弁に、見惚れては尻餅をつき、行儀悪く両足を前に投げ出して、先へ立って行く嘉門次に、うしろを振り向かせた、私の後からは、荷かつぎが一人|跟《つ》いて来る、私の辷るたびに急に下り足を停めようとしては惰力でよたよたしながら、杖を突いてどうやらこうやら踏み止まる、威勢よく先に立つのは、嘉門次の連れた犬ばかりである、私は辷るのが怖いので、斜面に曲線を描きながら二人の間に挟まれるようにして、それでも次第に谷の中へ下りて来る、下りて来るというより、谷底へと呼び込まれる。
谷の始まりと思うところには、青草で包まれた小山が、岬のように出ている、小山の向うが左俣谷で、こっちが右俣谷である、左俣谷の上に、笠ヶ岳の長い尾根が高く列《つら》なっているのと向い合って、右俣谷の上を截ち切るように、高く繞《め》ぐっているのは、槍ヶ岳から穂高岳、岳川岳へとかけた岩石の大屏風で、両方とも肩を摩《す》れ摩《す》れにして、大きな岩の塊を虚空に投げ上げている、高さを競って嫉刃《ねたば》でも合せているように、岩が鋭い歯を剥き出して、水光りに光っている。
この両山脈の間の薬研《やげん》の底のような溝が、私どもの行く谷である、長い青草が巨大な手で、掻き分けられたように左右に靡いているのが、おのずといい径になっている、嘉門次は杖の先でちょっと叩いて見せて「熊が行っただあ」と教えてくれる、したがその草分路は、大先達が通行した跡のように荒々しくも威厳のあるものに見られた、草原から河原となっても、水はあまりなかったが、大きな一枚石で、下りられそうもない、崖へ来ると、雪解の水が、ちょろちょろ流れる、その上へ翳《かざ》した白樺の細い幹が、菅糸を巻いたような、白い皮を※[#「糸+施のつくり」、第3水準1−90−1]《ほ》ぐらかして、赭《あか》ッちゃけた肌が雨止みのうす日に光っている、向うを見ると穂高岳の肩が、白く剥《は》げて、この谷へ一直線にくずれ落ちている、白出しの尾根はあれずらあと、嘉門次は、雲の絶え間を仰向いて言ったが、私は、ことしもしくじった[#「しくじった」に傍点]笠ヶ岳の残雪に、執念を残さないわけにはゆかなかった。
独活《うど》が多くなって、白い小さい花が、傘のように咲いている、変に人慣れないような、青臭い匂いが、鼻をそそる、谷から谷を綾取るようにして、鶯が鳴き出す、未だ溶けそうもない雪の塊まりが、鮮やかな白さを失って、灰に化性《けしょう》したようになって、谷の隈に捨てられている、昨日通った槍ヶ岳の山稜から、穂高岳へとかけて大きく彎曲した、雁木《がんぎ》のようなギザギザの切れ込みまでが、距離の加減で、悠《ゆ》ったりと落ちつきはらって、南の空を、のたくっている、それでも尖りに尖った山稜の鋭角からは、古い大伽藍の屋根の瓦が、一枚一枚|剥《め》くられては、落ちて砕けて、長い廻廊《ギャラリイ》に足踏みもならぬほど、堆《うずた》かく盛り上ったように、谷の中は、破片岩が一杯で、おのずと甃石《たたみいし》になっている、鱗《うろこ》がくっついているのかとおもう、赤くぬらくらしたのもあれば、黄な碼碯《めのう》色のものや、陶磁器の破片のように白く硬く光っているのもある、青い円石の中に、一筋白く岩脈《ダイク》の入ったのが、縞芒《しますすき》でも見るようで美しい、この高らかな大なる山稜を見ていると、何十万年となく、孤独の高い座を守っている聖堂でも見るように思われて、私は偶像崇拝者の気になり、何だか自分でひとり決めに、日本人の総代になったつもりで、ちょっと目礼をしてみた、実際石と石の間に割り込んだ我々三人は、石の仲間入をしたので、誰も石よりも、権威のあるものだと、信ずるわけにはゆかなかった。
うす日で安心していた間もなく、雨がザッとふり注いで来た、谷の中で雨に降り出されるほど、滅入った気になることはない、ゆうべ槍ヶ岳の峰頭から見た、北の空の燃え抜けるように美しい夕日も、今になって見ると、神棚の火のように影がうすいものであった。私は頭の中まで、ぼんやりと膜が下りたようになった、眼鏡は曇って、一寸先を見透すのさえ大なる努力を要する、外套のおもてには、雨が糸筋を引いていい加減に結び玉を拵えては、急にポロポロと転び落ちる、それが人間よりは、生命のある原子のようにも思える、両側の青木の中から、霧はもやもやと舞い立って、谷が一杯に白くなって、鉛で圧しつけられるようだ。
始めは上流とは思われぬほどに、川幅が濶《ひろ》かったが、谷が次第に蹙《せば》まって、水嵩《みずかさ》が多くなったので、左の岸の森へ入った、山桜がたった一本、交って、小さい花が白く咲いているのが、先刻の白花の石楠花とふたつ、この谷で忘られないものになった、足許には矢車草の濶い葉や、車百合の赤い花があったようだが、眼もくれずに踏み蹂《にじ》って行く、森がつきて河原に出ると、岳川岳の大きな岩石が、杓子《しゃくし》を並べたように、霧の中にうすぼんやりと炙《あぶ》り出されて、大きくひろがったり、小さく縮んだりしている。
イワス(岩壁の截《き》り立っているところ)にぶつかると、水が深くて急であるから、森の中へ潜り込む、そうしてまた森から吐き出されては、谷の中へと飛び込む。犬は森の中を潜るたびに、ビッショリになって、川縁へ下り立つたびに、プルプルと総身を震わせては、水を切っている。
槍ヶ岳から落ちるという槍沢は、崖になって、雪が綿のように白い、その下から水がすさまじい幅濶の滝になって、落ちて来る、河原には蓬《
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