しゃぶりながら、焼岳を見ると、半腹以上岩壁が赭っちゃけて、あらわれている、嘉代吉と人夫も、一と息つきながら焼岳の煙を見つめている、「いいねあの煙は」「どうも天気がやかましい」「どうしてね」「あの煙が、乗鞍の方へ寝ると案じはねえだが、飛騨の方へ吹きつけてるから、ちょっとやかましいわい」私は少し心配になって来た、「そこが風の吹き廻しで、解らないところだろうよ」「いんや、西へ吹くと、雨になるだあ、測候所より確かなものだ」という。
 焼岳の麓からは、灰の埃が濛々《もうもう》として、谷の白洲に大きな影をのたくらせながら、徳本峠を圧しかぶせるようにして、里の方へと下りてゆくのが、まだつづく、乗鞍岳の左肩に、御嶽は円錐形の傾斜を長く引いて、弱い紺色に日を含んだ萌黄色が、生暖かい靄のように漂っている、どこからか鶯が啼く、細くうすッぺらな、鋭利な刃物で、薄い空気の層を、つん裂いて、兀々《ごつごつ》とした硬い石壁に突きあたる。灰で塗られた雪田は、風の吹きつけた痕らしく、おもてに馬蹄形の紋をあらわしている、焼岳の右の肩から遠くの空へ、飛騨の白山つづきの山脈が、広重《ひろしげ》の錦絵によく見るような、古ぼけた煤色をぼかしている。
「押し出し」の石崩れも登りつくした、灰を被むって黒く固まった万年雪は、杖も立たないので、人夫が先に立って、鉈《なた》で截《き》っては足がかりを拵《こしら》えた、柱のように斜に筋を入れた岩壁は、両側にそそり立って、黒い門をしつらえたようである、その頭は筆架のように分れて、無数の尖った岩石が、空を刺している、その薄ッペラの崖壁にも、信濃金梅《しなのきんばい》や、黒百合や、ミヤマオダマキや、白山一華《はくさんいちげ》の花が、刺繍をされた浮紋《うきもん》のように、美しく咲いている、偃松《はいまつ》などに捉まって、やっと登ったが、この二丁ばかりの峻直なる岩壁は、日本アルプスにも、比《たぐ》いの多からぬ嶮しさであった、そうして登りよりも降りの方が、なお怖ろしかろうと思われる。
 鋸歯のような岳川岳から、ここ穂高岳に列なっている岩壁は、一波が動いて幾十の波が、互い違いに肩を寄せつけながら、大|畝《う》ねりに畝ねって、頭を尖らせ、裾をひろげて乱立するように、強い線で太い輪廓を劃した立体が、地球の心核を、無限の深さからつかみ上げてすっくと突っ立っているのである、そうして截っ立てた絶壁は、世に見らるる限りの、壮大なる垂直線をして、梓川と蒲田谷の中間にズリ落ち、重たい水蒸気が溜息を吐《つ》くように、谷の底から漂って来て、団々の雲となって、ふうわりと草むらを転げてゆく、雷鳥がちょいと首を出す、人夫が石を投げたので、また首を引っ込めてしまった。
 この岩壁の脈から、左の方の低い尾根へと取れば、槍ヶ岳へ行かれるのであるが、私は穂高の峰々を片ッ端から踏んで見たくなったので、私が御幣岳(明神岳または南穂高岳)と呼ぶ三本槍状の穂高を、先へ駈けぬけるつもりで、人夫だけを別れ道に待たせて置いて、嘉代吉と二人で偃松の間をむやみに走った。
 眼の下に遠く梓川は、S字状に蜿《う》ねっている、私の足音につれて、石がコロコロと崩れ落ちる、壁一重を隔てて、ざわざわがらがらと、滝のたぎり落ちるような音がする、嘉代吉を振りかえって聞くと、石が崩れているのだという、かの戦慄すべく、恐怖すべき、残忍なる石と石の挌闘《かくとう》と磨滅が始まったのである、私は絶壁を横切りながら、鋭い切れ物で、頬をペタペタ叩《たた》かれるような気持をしながらも、ここまで来ると、岩石の美《うる》わしき衰頽と壊滅は、古城の廃趾のように、寂びを伴って、その石なだれの尖端は、まっしぐらに梓川の谷に走りこんでいる、地心から迸発《ほうはつ》させた岩石の大堆朶《だいたいだ》を元に還すために、傾け尽くされたような、断末魔の時節が、もう到来しているのではないかと思った。
 ともかくも三本槍の、一番手前の根もとに達した、それから中央の大身の槍を目懸けて、岩壁の喰い欠かれた大垂るみを走りながら、ようやく取りついた、霧は反古《ほご》を円《まる》めて捨てたように、足もとに散らばりはじめた、東の空に、どうしても忘れられない富士山が、清冷|凜烈《りんれつ》なる高層の空気に、よくも溶けないとおもわれるような、しなやかな線を、八字状に、蛋白色の空に引き、軟かそうな碧の肌が、麗わしく泛《うか》び出た、やや遠くは八ヶ岳、近くは蝶ヶ岳が、雲の海に段々沈んでゆきそうだ。
 槍ヶ岳への岐《わか》れ路まで戻って来ると、人夫は親子連れの雷鳥を、石で撲《う》ち殺して、足を縛っているところであった、先刻首を引ッ込めたそれか知ら、とうとう助からなかったかなあと思う、逆さにして荷に括《くく》りつけられたのを見ると、眼は吊上って、赤い肉冠《とさか》は血汐が滲んだように気味悪く、鋭く尖《とが》った爪は、空を掻いて、雉《きじ》に似た褐色の羽の下から、腹へかけて白い羽毛が、もみくしゃに取り乱され、脚の和毛《にこげ》が菅糸のように、ふわふわ空に揺られている、可愛そうだと言った口で、今夜私も一緒になって、この肉を喰うのかなあと思う。
 岩壁の大天井まで這い上ると、日輪は爛々として、頭上に高い、西の方乗鞍岳御嶽の大火山脈は紫紺の森と、白雪と、赭岩の三筋に塗られ、南の方木曾山脈は、鳶色の上著《うわぎ》に白雪の襟飾りをつけ、遥かに遠く赤石山系は、鼠がかった雲の中に沈没している、常念岳や、大天井岳は、谷一つの向いに近く、富士と八ヶ岳は、夢のように空に融けようとしている、北では鹿島鎗ヶ岳と、白馬岳を見たが、半分は雲に没して、そこから低く南走した山は、全く雲底に沈んでしまっている、雲と遠山の間の空は、うす気味の悪い蛋白色の透明で、虚無の中をどこまでも突きぬけている。
 私のいう西穂高岳へ出ると、ここに、もとは三角測量標があったということであるが、今は奥穂高の方へ移されたので、石の断片ばかり磊々《らいらい》として、小さく堆《うずた》かくなっている、ここは槍ヶ岳へも、岳川岳から岩壁伝いに乗鞍岳へも、また奥穂高へも、行かれるところで、三方への追分路である、雲が天上を縦横に入り乱れて、その影が山に落ちて、痣《あざ》が方々に出来る、常念岳の禿げ頭が光って見える。
 それから尾根を伝わって、下り気味になる、ちょいちょい小さく尖った山稜は、大波の間に、さざ波をだぶだぶ打ち寄せたようで、爪先が上ったり下ったりする、石の皺には、黄花の石楠花《しゃくなげ》が、ちらほら咲いている、この花の弁で承けた霧の雫を吸ったときは、甘酸っぱい香気で、胸が透いた。
 岩壁は次第に薄い刃となり、擦り切れて、尖っているので、一つの方向ばかり行かれないから、南側を行ったり、北側へ廻ったりする、北側は大雪田で、谷までグイと凹んで、刳《え》ぐられたとこが多い、「今夜の泊まりはあすこだ」と霧のもつれ合っている間から、涸沢《からさわ》の谷底を眼の下に見て、嘉代吉が指さす、その霧のぴしゃぴしゃささやぐ間を、奥穂高岳の絶頂へと辿《たど》りついたが、残雪は六尺ばかり高く築いて、添った壁を蝕《く》っている、奥穂高の前に野営に適したような窪地があったが、石ばかりで、偃松の枝一本見つからないほどだから、燃料のないことだけでも、絶望をしなければならなかった。
 奥穂高といっても、岩石の逼迫《ひっぱく》した凸った地点に、棒杭一本を打ち込んであるだけのことであった。
 そこから、今夜の野営地と決めた谷まで、下りようとしたが、霧のために空へ薄い膜をかけられ、突き破っても、切り払っても、ぼんやりとして一、二尺の先を見つめるのが、精々の努力である、そのうちに霧とも言われない大粒の雨が、防水布の外套を、パチパチ弾《はじ》いて、飛び散る水玉が、石にまで沁みこむようになった、手も凍《こご》えはじめて、下り道を選んでいる暇はない、鋭い山稜だの、崩石だのを迂廻して、一、二丈ばかりの絶壁に行き当った。
 ここを下りなくては、谷へ行けそうもないので、準備の綱を出して、嘉代吉にその一端を持たせ、私は金剛杖を先ず投げ出して置いて、空手で綱に縋《すが》った、雨に濡れた麻の綱は、思わずツルツルと辷って、私を不用意に直下させたが、それでも、中途で岩に足を踏んがけ、綱を力に、身を弓のように反らせて下りた、人夫も後から下りて来た、下りては見たが野営地とは方角が違って石炭の粉のように黒く砕けた岩石が、ザラザラと狭い谷へ頽《くず》れ落ちている、谷の水音が雨の音に交ってザアザアと聞える、こんなところじゃあなかったと、嘉代吉は考えていたが、少し戻り気味に岩石の盛り上った堤防を越して、大雪田の頭に出た、陸地測量部員が、去年泊まった跡だとかいう、石を均《な》らして平坦にしたところがあって、燃え残りの偃松が、半分炭になって、散らばっていたが、木材は求められなかった。
 その直ぐ下から、大きな雪田が、峻急の傾斜をして、谷へズリ落ちている、雪田の末は、石がゴロゴロしていて、その中に四角な黒檀の机でも、据えたような、大石がある、形がおもしろく目立つので、今まで霧の隙き間から、山稜伝いに眼の下に、眺めていたものだ、それが石の小舎で、今夜はあの石の中に、潜り込むのだと聞いた。
 私は雪田の縁辺の断石を履《ふ》んで、下りかけたが、いかにもまだるッこいので、雪を横に切って斜に下りようとした、雪のおもては、焼岳の灰がばらついて、胡麻塩色になっている、雪は中垂るみの形で、岩壁をグイと刳ぐり、涸谷《からたに》に向いて、扇面のように裾をひろげている、その末はミヤマナナカマドの緑木が、斑《まだ》らに黒い岩の上に乗しかかって、夕暮の谷の空気に、湿めッぽく煙っているので、雪の海に、小さな森を載せた島嶼《とうしょ》が突き出ているようだ、私が踏んがけた雪は、思いの外に堅く氷っているので、さらぬだに辷りやすい麻の草履が、よく磨きあげた大理石の廊下でも走るように、止めどもなくつるつると滑り始めた、前にのめって顔でもすりむいてはと、気がかりになって、ちょっと反り身になると、身体が膝を境に「く」の字の角度をして、万年雪のおもてが、蚯蚓張《みみずば》りに引ッ掻かれたかとおもうとき、金剛杖は私の手から引ッたくられたように放り出されて、私は両手で雪を突いた、傾斜がついているから、そのはずみに、軽い体が雪の上を泳ぎはじめた、アッア、アッと本能的に叫んだときには、足の爪先が吊《つ》り上げられたように、万年雪を蹴って、頭の中は冷たい水をさされた、もういきおいのついたうわずった[#「うわずった」に傍点]身体が、雪田の境にある断石の堤防へ、けし飛んで行った。
 先へ下りた嘉代吉が、血相かえて、私に抵抗するように、大手をひろげて、向って来たかとおもったとき、私は嘉代吉の懐にグイと抱き締められていた、「どうしました、怪我はしませんか、怪我は」私は黙って首を振った、胸が重石で圧されたように痛い、雪田を下りかけた人夫は杖を突っかいながら、呆気《あっけ》に取られた顔をしている。
 しばらくは嘉代吉の肩に凭《よ》りかかりながら、徐々《そろそろ》と雪田を下った、裾の方へ来ると、水音が雨に伴って、ざわつき出した、くるぶし[#「くるぶし」に傍点]を痛めたので、跛足をひきながら、石の小舎へ来た。
 石は人の手入れを経ない、全くの自然石で、不思議にも中はおのずと、コ字形に刳ぐられていて、濶さは一坪半ぐらいはあろう、四人ぐらいは潜《もぐ》れそうであるが、うっかり立てば頭を打ちつけるほどに低い。嘉代吉と人夫が荷を卸して、油紙で庇を拵えてくれるのを、待ち兼ねて、石の中へ潜って寝た、雨はざんざ降りになって、庇から岩を伝わっては、ポタポタ雫《しずく》が落ちる、防水布の外套に包まれて、ココアを一杯興奮剤に飲んだまま、飯も喰わずにたわいもなく痲痺したようになって寝た。
 夜中にふと眼をさまして、石の外へ這《は》い出して覗《うかが》うと、雨はいつか止んだらしいが、風はゴーッと唸って、樺の稚木《わかぎ》が騒いでいる、聞きなれない禽《とり》が、吐き出すように、クワッ、クワッ
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