、未だ誰もその外に、入ったものはないと言うので、私はふと聞き耳を立てた。嘉門次は穂高山の主だから、別物として、劫初《ごうしょ》以来人類の脚が、未だ触れたこともない岩石と、人間の呼吸が、まだ通ったことのない空気とに、突き入るということは、その原始的なところだけでも、人間の芸術的性情を、そそのかすものではなかろうか、私は急に習慣の力から脱け出して、栗鼠《りす》が大木の幹に、何の躊躇もなく駈けあがるような、身の軽さをおぼえた。
 あの黒曜石のように、黒く光っている穂高山! あのやかましやのトルストイの顔のような、深刻な皺《しわ》を、何十万年となく縮ませている穂高山! 何物をも遠くへ突き放すように、深谷の中で、いつでも、独《ひと》り坊《ぼ》ッちで、苦り切っている穂高山!
 私は是非|往《ゆ》こうと決心した、その夜は森の匂いよりも、川瀬のたぎる水音よりも、私の官能は、あの大岩壁の幾重にも乱れ合う拒絶の線の、美しさと怖ろしさを按排《あんばい》した中へ、無理やりに潜《もぐ》り込もうとしては叩き落され、這い込んではずり下《さが》って、蜘蛛《くも》の糸のように虚空に閃めく寸線にも、触れたが最後、しっかり
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