ている。
穂高岳をめぐっている空気は、いつも清澄で、夕《ゆうべ》の空の色などは、美しく濃く、美しく鮮やかで、プルシアンブルーが、谷一面の天を染めている、その下に、ずらりと行列して、空の光が雨のようにふりそそぐに任せている谷の森林は、樅《もみ》、栂《つが》、白檜《しらべ》、唐櫓《とうひ》、黒檜《くろべ》、落葉松《からまつ》などで、稀に椹《さわら》や米栂《こめつが》を交え、白樺や、山榛《やまはん》の木や、わけては楊《やなぎ》の淡々しく柔らかい、緑の葉が、裏を銀地に白く、ひらひらと谷風にそよがして、七月の緑とは思われぬ水々しさをしているが、一度穂高岳の半腹に眼をうつすと、鋭利な切れ物で、青竹を斜《はす》に削《そ》いだような欠刻が、空気に剥《む》き出されて、重苦しい暗褐色の岩壁が、蝙蝠《こうもり》の大翼をひろげて、人の目鼻をふさぐように、谷の森にも、川にも、河原にも、嵩《かさ》になってのしかかって見える。
「あんなところが登れようかね」と、岩壁の白い薙《なぎ》を指しながら、話の緒《いとぐち》を引き出したところが、あすこは嘉門次が、つい去年、山葵《わさび》取りに入りこんで、始めて登ったところで
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